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マルコに任された雑用は、すぐに終わった。
前までは、俺が部屋にいるときは一緒にいてくれたのに、マルコは俺に雑用の内容を伝えるとそのまま一人で部屋を出て行ってしまった。
仕事が終わった後も一人きりな室内にじっとしているのも暇なので、俺もマルコと一緒の部屋を出て、うろうろとモビーディック内を歩き回っていた。
本当なら、今の時間は釣りの時間だったのだ。
けれどもビスタに送り出されてしまったし、次やるときは鍛えてからにしようと言われてしまったので、船尾に戻るわけにもいかない。
魚を釣るためだけに鍛えるという意味がよく分からないが、確かに俺だけだとあの魚すら釣り上げられなかった。
俺がこれからやりたいことのためにも、体を鍛えるのは必要なことだ。
鍛えるってどうすればいいんだろう。
脳裏に浮かんだのは、むちゃくちゃな鍛錬をしていた某剣豪だった。
いや、さすがにあれは無理だ。
「ナマエ、何してんの?」
てくてく歩きながら軽く頭を横に振ったところで、ふとこちらを見ている顔が目に入る。
足を止めて、ハルタ、と呼びかけると、腰に一本の剣を差したままのハルタが軽く笑った。
ハルタは確か漫画では隊長格だったはずだが、今はまだ隊長じゃない。
やっぱり今は俺が知っている時より結構前なのだと、そう俺へ教えてくれた存在だ。
「今日は魚釣りするんだって言ってたじゃない。もう終わったの?」
「さっきしてた。魚釣ったら、海王類がついてきたから」
「ああ、さっきなんか騒いでたのはその所為か。ビスタが仕留めたんだって言って、何人かで運んでたや」
「見たくないなら見るなって、マルコが。それで、手伝えって言われたから終わり」
そういえば、あれは何の話だったんだろう。
俺の言葉に、ハルタが軽く首を傾げた。
何の話、と尋ねられて、俺も一緒に首を傾げる。
「……ナマエ、ごめん、わかんない」
「そ?」
困った顔をされて、よく分からないが俺は頷いた。
ハルタにも分からないなら、マルコがどうしてああ言ったのかはマルコに聞くしかないかもしれない。
それで結局魚釣りはどうなったのかと聞かれて、俺は少し眉を寄せた。
今言ったじゃないか。
「マルコが手伝えって言ったから、終わりになった」
もう一度繰り返すと、少しばかり考えたハルタが、俺を見て言葉を放つ。
「つまり、ナマエは魚釣りチームでちゃんと釣りしてて、魚釣ったついでに海王類が出て、マルコが来て何か手伝えって言ってきたから魚釣り止めてそれ手伝ってる、ってことでいい?」
「ん。手伝ってた」
そこは過去形だと強調すると、はいはいと頷いたハルタの口からため息が漏れる。
「ナマエ……もう少し会話する意志を持とうよ……」
「? してる」
受け答えだってちゃんと出来てるだろうに、何を言っているんだろうか。
もう一度首を傾げた俺の前で、もう少し頑張ってよと良くわからないが無茶なことを言って、ハルタが肩を竦めた。
「ナマエとまともに会話できてるの、マルコくらいだよね。何かコツとかあるのかなァ」
「マルコは、俺、分かりやすいって」
「うっそだァ!」
マルコが前に言っていた言葉を伝えると、ハルタは酷いことを言って笑った。
嘘じゃないのに。
俺がじとりと視線を向けたことに気付いて、ごめんごめん、と軽い謝罪が寄越される。
「まァ、マルコもナマエのこと気遣ったりしてるし、注意してナマエのこと見てるってことだよね。マルコに通訳頼んだほうが早いのかも」
「マルコが気遣ってる?」
次はマルコがいるときに話しかけるよ、と言い出したハルタの前で、俺はぱちりと瞬きをした。
戸惑う俺を見て、気遣ってるじゃん、とハルタが言う。
「誰かを自分の部屋で寝泊りさせることもなかったマルコが、ナマエだけは自分と同じ部屋にするって言って、ベッドも運ばせたし。ナマエがここに慣れるまでは、ずっと一緒にいたじゃない? アレだって全部全部、ナマエのためじゃん」
さらりと寄越された言葉に、俺は少しばかり困惑した。
けれども俺の困惑など気にした様子もなく、ハルタは笑うのだ。
「みんな、珍しいなァって言ってたんだよ。自分が連れてきたとは言え、マルコがあんなに気を使うなんてさー。ナマエに助けて貰ったから、マルコもナマエを助けたかったんだろうねェ」
ふふふと笑うハルタに、そ、と頷くことしか出来ない。
それからもう少しだけ言葉を交わして、俺はハルタと分かれて歩き出した。
ぐるぐると、ハルタの言葉が頭の中を回っているようで、まるで船酔いしたように気分が悪い。
風にでも当たろうと甲板を目指して歩いて、たどり着いたそこからデッキを見やると、端のほうでマルコが誰かと話しているのが見えた。
紹介された覚えがある。確か、一番隊のクルーだ。
何かを指示しているらしいマルコはぴしっと背中を伸ばしていて、俺にとっては見慣れたものだった手錠だって、もうその腕には無い。
あれは、この船の上ではいつも通りなんだろうマルコの姿だ。
もし今のマルコと俺があの島に置き去りにされたって、マルコは俺に頼らず食料をそろえられるだろうし、海楼石も無いのだから空を飛んで船へ帰ることだって出来る。
つまり、俺と一緒にいたときのほうが、マルコにとって『珍しい』状態だったのだ。
「……ん」
何となくマルコの背中を見ていられなくて、そっとその場から離れる。
人の多い船内に落ち着かない気分になって、薄暗くて狭い場所を探した。
歩いていった先にあったのは小さな倉庫で、いくつもある倉庫のうちの一つらしいそこには、鍵もかかっていない。
扉を開いて覗くと、中にあった棚に並んでいたのは古びた本の群れだった。
どうやら、倉庫じゃなくて書庫の一つだったらしい。
船が揺れても倒れてこないようにしっかりとした鎖を張られた本棚を見上げて、すう、と小さく息を吸い込む。
薄暗い場所に満ちているのは湿った紙のにおいで、何だか酷く落ち着いた。
こういう場所は好きだ。
ためしに手を伸ばして、本を引っ張り出してみる。
開いてみたそこにあったのは英文で、読めない文字に少しばかり顔をしかめた。
それでも、ぱらぱらとページをめくって、いくつもいくつも綴られたタイプ文字を眺める。
読めない字を眺めながら、脳裏に浮かべたのはあの島で一緒に過ごしたマルコと、そうしてこの船に乗ってからのマルコのことだった。
今まで、俺はマルコが変になったんだと思ってた。
あの島にいた時みたいに構ってこなくなった。あの島にいた時みたいに触ってくれなくなった。あの島にいた時みたいに一緒にいてくれなくなった。
それが、変だと思ってた。
だけど、本当は違ったらしい。
多分、マルコは『変になった』んじゃなくて、『変』な状態から『元に戻った』だけなのだ。
そう把握しただけなのに、何だか、自分の中のどこかがざわついていた。
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