9
マルコは、何度か俺に、「迎えに来た船に一緒に乗らないか」と言った。
そのたびに俺は、「乗らない」と返事をした。
だって、俺はこの世界の人間じゃなくて、元の世界へいつか帰らなくちゃいけないからだ。
誰かが待っているわけじゃないと分かってはいても、それは変わらない。
そして、この島以外に俺の住んでいた場所と接点のある場所を、俺は知らない。
だからここを離れるつもりなんてなくて、何度も何度も拒絶したのに、マルコは時々思い出したように俺を誘った。
どうしてそんな風に誘ってくれるのか分からなくて、それでも俺は何回も、それを断った。
※
その夜は、何だか寝苦しかった。
気付けば真上に何かが圧し掛かっていて、腕も掴まれていて、口が何かにふさがれている。
これがうわさの金縛りか、と考えて、俺はきゅっとまぶたに力を入れた。
死体は二回ほど見たし、そのうちの一つは海王類に噛み千切られたらしい無残なものだったけど、生身と幽霊じゃ恐怖の具合が違う。
俺は神様なんていないと思ってるし信じてないけど、幽霊はそこそこ怖かった。
ただの夢だったらいいのに、と思いつつも、何かぬるぬるしたものに口をなぞられて、やっぱり夢じゃない、と把握する。
ナメクジの幽霊か。俺はナメクジを虐殺したことなんて無いぞ。
お引取り願いたいが、目を開けてその人ならざる姿を視界に納める覚悟も出来ず、ただひたすら目を閉じた俺はその何かが去ってくれることを願った。
ぬるぬるした何かはまだ俺の唇の上を這っていて、むしろ口の中に入り込んでこようかどうか迷っているような気もする。
ナメクジなんて食べた事ないけど、口の中に入ってきたら噛んでやろうかと真剣に悩んでいる俺の上で、小さな囁きが落ちた。
「……ナマエ」
聞き覚えのあるその声に、ぱちりと目を開ける。
俺が目を開いた事に驚いたように、さっきまでうろうろしていたナメクジも消えた。
ものすごく近くに二つの目があるのが、月明かりの下で分かる。
目。
そう、そこにあるのはこちらを見つめる双眸だった。
そして金髪。
思わず傍らを見やって、そこにあるはずの姿が無い事を確認し、もう一度自分の上に圧し掛かっている相手を見上げる。
「……マルコ?」
なぜか、マルコが俺の上に乗っていた。
その両手が俺の両手を掴んで俺を万歳の格好で固定していて、さっきから感じていたつかまれている感触はマルコの手によるものだったと言うことを把握する。
つまり、俺はマルコに圧し掛かられている。
いやしかし、どうしてだ。
「……?」
よく分からず首を傾げた俺の手を放して、マルコが俺の上から退いた。
となりに座り込んだマルコを見やりながら、俺も起き上がる。
月はずいぶん傾いてしまっていた。この分だと、もうあと二時間かそこらで朝がくるだろう。
「マルコ?」
こちらを見ず、座り込んだままのマルコを呼ぶと、びくりとその体が震えた。
何かに怯えるようなその様子を不思議に思って眺めながら、何かが這っていた唇を軽く腕で擦る。そこは濡れていて、さっきの何かはやっぱり実際に触れていたものなのだと分かった。
けど、さっき俺の上にいたのはナメクジの幽霊じゃなくてマルコだった。
あれだけ近かったんだから、間に何かが入り込んでいたとも思えない。
だって、ものすごく近かったのだ。目の前にあるものに戸惑うくらいに。
とすると。
「……マルコ、舐めた?」
あれはマルコの舌なんじゃないだろうか。
そんな風に思って尋ねても、マルコは答えなかった。
それこそ返事でしかないだろうと、どうやら肯定したらしいマルコから俺も目を逸らす。
何だかどきどきと胸が痛くなってきた。これは困った。
人の口を舐めるなんて、一体どういうつもりなんだろうか。
俺は男で、マルコも男だ。
せめてマルコが女か俺が女だったら、溜まってるんだなァで済ませられる気もするが、俺もマルコも男なのだ。
この世界ではそういうのが普通なんだろうか。
いいや違った、この世界はワンピースだった。
ワンピースにそういう奴は出てこなかった筈だ。男前のオカマはいたけど。
サンジは女性にメロメロしまくりだったし、ブルックはパンツが好きで、フランキーとチョッパーは良くわからないけどゾロはたしぎと怪しかったし、ウソップには幼馴染がいて、ルフィはハンコックにプロポーズされてたじゃないか。
だとすればやっぱり、今のこの状況はおかしい気がする。
何よりおかしいのは俺だけど。
男に口を舐められてた。多分、キスもされたんじゃないかと思う。
なのに何で、『気持ち悪い』んじゃなくてどきどきしてるんだろうか。
そろそろまじめに心臓が痛い。あと何だか掌や足の裏の真ん中まで痛い。
ぎゅっと拳を握ってそれに耐えつつ、小さく俺はため息を零した。
そうして、遥か彼方まで続く海原から、もう一度マルコへ視線を戻す。
「マルコ」
そうして座り込んだままで呼びかけると、恐る恐るといった風に、マルコがその目をこちらへ向けた。
どこか後悔しているような表情に、何となく胸の痛みが増した気がする。
そんな顔をするくらいなら、最初からやらなきゃいいのに。
「何でしたのか、ちゃんと言え」
尋ねつつ、俺は正面からマルコを見つめた。
その目が俺から逸らされようとするたびその名前を呼んで、こちらへとその視線を引き止める。
月明かりの下で、まるで囚人みたいに両手を拘束されたままのマルコは、仕方なさそうに俺を見たまま、やがて押し殺したような声で小さく呟いた。
「…………ナマエを、おれのもんにしてェから、だよい」
そうすりゃお前はおれについてくるだろうと、マルコは言った。
どういう意味か分からず、俺は瞬きをする。
俺の戸惑いをいつものように見て取って、マルコはさらに口を動かした。
「ナマエは、この島を出るつもりはねェんだろい? でも、おれは船に帰りたい。……お前もつれて」
そうするためには自分のものにするのが一番手っ取り早いと思ったんだと、そう続く言葉に、何だか顔が熱くなったのが分かった。
マルコは、何が言いたいんだろう。
別に、俺なんて気にしなくたっていいじゃないか。ここに置いていったって、マルコには何の支障もない。
なのに、どうして俺を連れて行きたいなんて言うんだろう。
「ナマエを、ここにおいていきたくねェんだよい」
俺の顔を見て、マルコが言う。
俺が口を開く前に答えをくれるマルコに、俺は首を傾げた。
「何で」
「…………一人は、寂しいんだろい」
俺がマルコに言ったいつかの台詞をなぞるようにして、マルコはそう言った。
ついにその目が逸らされて、投げ出した自分の手を見下ろす。
その目がこちらを見ないことを残念に思いながら、俺は少しマルコへと近づいた。
手を伸ばせば簡単に触れそうなくらい近くなっても、まだマルコはこっちを見ない。
「俺が寂しがるから、俺を連れて行きたいのか?」
「………………そうだよい」
聞いたら沈黙の後にそう答えたので、俺はマルコの両手を片手で押さえるようにして捕まえた。
触った海楼石はひんやりしていて、俺の指が触れたマルコの手が、ぴくりと動く。
「本当に?」
少しばかりうつむいたその顔を覗き込むようにしながら尋ねると、マルコの眉間に皺が寄った。
ぎゅっと寄せられたそれに手を伸ばしたいのを少しばかり我慢して、俺はマルコの返事を待つ。
しばらくそのまま黙り込んでいると、何かを決心したように視線をこちらへ向けたマルコが、その手を動かした。
拘束されたままの腕が軽く上げられて、気付けばそのまま俺の背中へと回されてしまう。
手錠と両手に頭を押されるようにしながらぐいと引き寄せられて、俺はマルコの肩口に頭をぶつけた。ごちんと音が鳴って、なかなかに痛かった。
抗議しようとして、何だか目の前の体が温かいのに気がつく。
少しばかり触れているマルコの耳が、特に。
ちらりと見やると、そこが真っ赤になっていた。
ついでに言えばマルコの顔も赤い。
それを見て、何だか俺までさらに顔が熱くなる。
どうしたのかと尋ねようとしたけど、尋ねる前に腕の力を強くされて、俺はマルコに体を押し付ける格好になってしまった。
どきどきしていた心臓が、ばくばくと派手に音を立てる。これはもう確実に、マルコにも聞こえているんじゃないだろうか。
「……本当は、おれがナマエから離れたくねェだけだよい」
マルコにそんな風に囁かれて、何だかまるで口説かれてるみたいだと、俺は思った。
けど、俺は男でマルコも男だった。
だから、その言葉にそういう意味なんて無い。
そう考えようとしているのに、耳元で囁いたマルコの声が、俺の抵抗を無駄にする。
「……好きだ」
小さな小さな告白は、まっすぐに俺の心臓を突き刺して通過した。
じわりと汗ばみそうなくらい体が熱い。
何より困るのは、マルコの告白を嬉しいと感じる自分がいるということだ。
好き。
好きだって、マルコが。俺のことを。
ぐるぐると目が回りそうになって、どうにかマルコの背中に手を回す。
俺の腕が回ったのが分かったらしいマルコが、俺を捕まえているその腕に力をこめた。
ぐりぐり押し付けられている海楼石がとても痛いんだけど、それを抗議したい気持ちにもならず、俺はマルコの肩口に懐く。
告白されて、こんなに嬉しいということは、どういうことか。
初めての感覚だったとしても、それが示す意味くらい、俺だってよく分かっていた。
「俺も、好き」
だから小さく呟いて、どきどきしていた心臓がばくばく跳ねはじめるのに小さく息をつめる。
マルコの体が、ほんの少し震えた。
そうしてまたも強められた腕の、縋るようなそれに、俺は小さくため息を零す。
まさか、生まれて初めて好きになった人間が同性だなんて、そしてその所為でこんな選択をすることになるなんて、考えたこともなかった。
「……俺、マルコについてくことにする」
けれども自分の感情に抗えるはずもなく、そうして俺は、元の世界を諦めたのだった。
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