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 船に戻ってみたものの、マルコはまだ帰ってきていないようだった。
 子供と一緒に俺が作ったオムライスを食べてから体を拭いて、服を着替えさせてから部屋へ引っ込んだ俺は、分厚い図鑑をめくっては中身を確認する作業を行っている。
 ふと気づけば時間が立っていたのか、隣で俺と同じように絵本を広げていた子供はくうくうと眠り込んでいた。
 俺のベッドの半分を占拠している子供の手からひょいと絵本を取り上げて、図鑑についていたしおりを開いているところに挟んでから近かった椅子へ放る。
 少し物音が立ったが、子供は目を覚ます気配がない。疲れているんだろう。
 小さく寝息を零している様子は、やっぱり『マルコ』にしか見えない。
 俺がいつもかぶっているタオルケットをその体にかけてやってから、軽く頭を撫でる。
 髪をすいた指に触れたのはあの『芽』で、それをしげしげと見下ろしてから、俺は図鑑に視線を戻した。
 違う。これも違う。
 いくつかの写真を確認しては次の項目へと移って、写真がないまま記載されているその特徴とあの芽を見比べては違うと判断してページをめくって、を繰り返してから図鑑を読み進めていた時、ふいに何の前触れもなく部屋の扉が開かれた。
 それを受けて図鑑から顔を上げると、室内へ入ってきたのはマルコだった。
 ここはマルコの部屋なのだから当然だ。

「おかえり」

 だからそう声をかけた俺へ、マルコの目がちらりと向けられる。
 俺を見て、それから俺の横で眠っている子供を見やったマルコの目が、そのままふいと逸らされた。
 
「…………ただいま、よい」

 小さな声でそんなことを言いながら、自分のベッドの方へと移動していくマルコを、少しばかり見つめる。
 やっぱり、今日はマルコの様子が変だ。

「………………マルコ、どうかしたのか?」

 だからそう尋ねたのに、どうもしねェよい、とマルコは答えた。
 嘘にまみれたその言葉に、何となくため息が出る。
 俺のそれを聞いて、マルコがわずかに拳を握ったのが見えた。

「……今日は、朝から様子が変だ」

 自分のベッドのそばで足を止めてしまったマルコを見上げながら、俺は言葉を紡ぐ。

「俺には言いたくないことか?」

 サッチだったなら、話を聞くことができるんだろうか。
 今日の昼、倉庫で一緒だったマルコの友人を思い浮かべた。
 あの時のサッチの口ぶりからして、サッチは『マルコの様子がおかしい理由』を知っているようだった。
 マルコが言わないなら自分からは言えないと言ったのだから、間違いない。
 一体何があったのかを知らない俺には、どうしようもないことなのか。
 教えてもらえないことが寂しいような気がしたが、間に線を引かれているのだから俺自身にはどうしようもない。
 サッチと部屋を変わってもらって、マルコとサッチを二人きりにすれば何とかなるだろうか。
 そこまで考えたところで、俺の目の前に佇むマルコが身じろいだ。
 そのままくるりと振り返ったマルコの、眉を寄せたその顔にぱちりと瞬きをする。
 マルコは、まるで泣きそうな顔をしていた。
 俺が、何か酷いことを言ってしまったのか。

「マル、」

「……思い出せねえんだよい」

 思わず名前を呼ぼうとしたら、俺のそれを遮ったマルコが、そんな風に言葉を落とす。
 その足がふらりと一歩をこちらへ踏み出して、自分のベッドの近くから俺の方へと近寄ってきたマルコに、俺はとりあえず手元の図鑑を閉じた。
 それをそっと子供が寝ているのとは反対側に置いてから見上げれば、俺を見下ろしたマルコはやっぱり泣きそうな顔をしている。
 その左手が俺へと伸びて、子供のころに比べて随分と大きくなった掌が、俺の右肩を捕まえた。

「思い出せねェんだ。オヤジと出会った時のことも、他の奴らと馬鹿をやった時のことも……あの頃、一緒にいた時のナマエのことも、何も」

「……マルコ?」

「大事なことも大切なものも、たくさんあったはずなのに」

 いっそ泣き叫んでくれた方がいいような小さな声を絞り出しながら、マルコが俺へと言葉を落とす。
 その目が痛みをこらえるように眇められて、それでもマルコは泣いたりはしなかった。

「ナマエに言われたことも、してもらったことも、ナマエに買ってもらった靴の色も」

 思い出せねェんだよい、とマルコがもう一度呟く。
 マルコの頭の中を確認できない俺には分からないが、それはきっと、俺を忘れないようにと大事に抱えていてくれたものだったに違いない。
 そういえば、最初におかしな顔をしたのは、俺が子供に靴の色を質問した時だった。
 原因が何かは分からないが、タイミングから見て、この子供のせいなのかもしれない。
 なるほど、様子がおかしかったのはそのせいか。
 俺は小さく息を吐いて、軽く両手を広げて見せた。
 けれどもマルコが動かないので、正面に佇んでいる彼へそっと両手を回してみる。
 俺がしたいことが分かったらしいマルコが、身を屈めて俺の肩口にその額を押し付けた。
 ベッドへ座ったままの俺へ乗り上げてきた膝が、ぎしりとベッドをきしませる。

「…………すまねェ、よい」

「謝る必要はないさ」

 寄越された謝罪へそう答えると、俺の服を掴むマルコの手に力が入った。
 まるで縋るような、小さな頃にやったような動きにわずかに笑ってから、なだめるようにその背中を撫でる。

「マルコが忘れていても、俺や他の『みんな』が覚えているから大丈夫だ」

 俺が子供を連れて部屋を出た時、この子供が『マルコ』であるという確認をしようと寄ってきたクルー達は、随分とたくさんの質問をしていた。
 そのどれもに子供は答えたし、正解だと彼らは笑っていた。
 だとしたら、マルコが忘れた記憶だって、全部他のクルーは覚えている。
 俺だってそうだ。
 俺だって、小さかったマルコと過ごした一週間のことはある程度覚えている。
 服を買いに行って青い服ばかりを選んだことも、一緒に公園に行ったことも、食事をとるたびの挨拶を間違えて覚えていたことも。

「それにほら、ちょっと忘れただけなら、ふとした拍子に思い出せるかもしれない」

 気休めにしかならないと知ってはいるが、そう囁いてからマルコの背中側で両手を軽く組む。
 俺の両腕によって俺に捕まってしまったマルコは、けれどもそれに気付いた様子もなく、俺の肩口にその顔をうずめたままだ。

「俺のことを丸ごと忘れたわけじゃないんだろう?」

 俺の名前を呼んで、俺に抱きしめられるがままにされているマルコへそう言うと、当たり前だろよい、と改めて小さく声が漏れた。
 それなら大丈夫だ、と囁いて、ただ組んだだけだった両腕に力を込めてみる。
 強く抱きしめた俺に、マルコはおずおずと体を動かしてから、やや置いてそっと俺を抱き返してきた。
 いつもなら自分から抱きついてくるのに、今さらそんな遠慮がちな行動をとるのが、なんだかおかしくて少しばかり笑ってしまった。




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