第二章 紅茶伯爵と不思議な屋敷 中はシンプルな作りの広い部屋だった。少しの家具と本棚しかない。大きく靴音を響かせ、少年はニルギリについて窓際のテーブルセットへ歩み寄る。
カーペットを踏むと、そのふわりとした感覚が、何だか妙に懐かしく感じられた。
それに、どこからかいい香りがする。これは、そう。紅茶の匂いだ。
ニルギリは少年を椅子に座らせ、テーブルに薬箱を広げると、早速少年の手当てを始めた。
どこもかしこも擦りむいた傷に、ニルギリがてきぱきと消毒を施していく。それは予想以上に苦痛を伴ったが、少年は痛いという言葉を必死に噛みしめ、ニルギリの治療の行方を見守った。
もしも今家に帰ったならば、こんな傷を見て母は卒倒するかもしれない。それぐらい、今回の家出はおそらくおれの一生分の傷を作った。
腫れた膝に、ニルギリが冷えた布をそっと当てる。すると、すうっと痛みが引き、少年はようやくほっと息をついた。
こうしていると、昨晩人生最初で最後の大喧嘩をしたことが嘘のように思える。あぁ、あの野郎、もう一発ぐらい殴り返しておけばよかった。
あのせいで少しの所持金も時計もなくなった。たったそれだけで今ボロボロになっている自分が、何だか浮き上がってしまいそうなぐらい軽くなったような気さえする。
少年は膝に当てた布をぼんやりと見下ろし、そして小さな傷にばんそうこうを貼り付けていくニルギリに目をやった。
この歳で貴族のメイドに雇われるなんて、この国はよほど働き手が足りないらしい。確かに、昨日見てきた街の様子は、両親が誇らしげに話していた“愛の国・平和の国”とはかけ離れている。
子供の心は荒み、大人たちは冷ややかな目でそれを見る。むしろ、路上生活をする大人も多かったな。
覗いた生活は難ばかりだ。肉を食べ、ちゃんとした水を飲み、医者にこんな簡単な治療を受けられるのは、一体どれだけの数の人間なのだろう?
「……君はこの国を、どう思う?」
ふと呟いた少年の問いかけに、ニルギリが作業を止め、顔を上げた。
それは目を丸くした、どこか驚いた表情。しまった、答えにくい質問をしたかもしれない。少年はとっさにそう思い口をつぐんだが、ニルギリは意外にもにっこりと微笑んだ。
「私は幸せです」
少年の質問に、ニルギリはただ一言そう答えた。
それが答えなのか、それとも遠回しな嫌味なのか。少年はそれさえもわからず、軽く肩をすくめた。
すると、ニルギリはそんな少年を見上げたまま、すっくと立ち上がる。
そして片手で少年の手を取り、もう片方の手を自分の胸に当てた。
「この国に不満がないと言えば、それは嘘になります。でも、私は不幸ではありません。こうして伯爵さまから立派なお仕事を任せられ、そして暖かな洋服、十分な食事を取ることができます。夜に眠りにつき、朝に目を覚ます。そんな明日があることの幸せ。それだけで十分なのです」
まるで祈るようにまぶたを閉じ、ゆっくりと語りかけるようにそう言ったニルギリに、少年は少し眉を下げた。
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