第一章 紅茶伯爵と家出少年「こら! 何するのよ!」
そんなことを思っていたら、また人にぶつかった。
少年が振り向くと、そこには高価そうな毛皮に身を包んだ婦人が顔を顰めて立ち止まっていた。
婦人は泥が跳ねたと大声で少年を怒鳴る。指された先を見ると、毛皮のコートの裾のあたりに、ほんの小さな泥のしみができていた。
くそばばあ、泥が跳ねたぐらいで喚くな。こっちは、全身こんなに汚れてんだぞ。
親切に手を差し伸べる人間なんて、一人も居ないのかよ。何が平和の国だ。何が、愛の国だ――
「うるせぇばばあ! お前なんかコートいらずだろ、トドみたいにぶっくり太りやがって!」
少年は大声でそう言い返し、そしてまた駆け出した。
背後で甲高い狂ったような早口が少年を罵る。少年は唇を噛み、手で強く耳を塞いだ。
腹減った、喉が渇いた。もう、何もかもわけがわからなくなってきた。
家を飛び出してきた頃は、どうにかなるって思ってた。もしかしたら、親切な誰かが家に泊めてくれるかもしれない、とか。
しかし家出少年を待っていたのは、そんな暖かい歓迎などではなかった。
ストリート・チルドレンと呼ばれる親も家も持たない野蛮な子供たちにすぐに目を付けられ、ほんの少し持ってきた金も時計も奪われ、さらに殴る蹴るまでされて、道路に投げ捨てられた。
つい昨晩のことだ。その時に傷つけられたあちこちが痛む。さらに今日人にぶつかって転んだ分の傷も、痛む。
そろそろ、膝が限界だ。変な色に腫れてきているし、もしかしたらこれが骨折というものなのかもしれない。
そう思ったとたん、ふっと体から力が抜けてしまった。少年は地面へ倒れ込むように膝をつき、擦り傷を抉られ思わず声をあげる。
悲痛の声にも、道行く人々はちらりと少年を見やるだけ。少年は血の滲んだ手のひらに力を入れ、ゆっくりと体を起こした。
そしてそのまま、背後の生垣に寄りかかる。後頭部に、ちくちくと葉の当たる感覚がした。
ずっと休まず走り続けていたせいで、息を吐くのも辛いほど、喉が熱い。変な音のする呼吸を抑えようと何度か口を閉じたものの、苦しくてまたすぐに開いた。
締め付けられるように痛むわき腹を押さえ、少年は頭上を見上げた。
寄りかかったのは、ずいぶん背の高い生垣。植え込みや囲いから見て、大きな屋敷だ。
おそらく貴族の屋敷だろう。こうしてそんなばかでかい屋敷の前にポツンと座り込んでいるボロボロの自分を想像すると、あまりに滑稽で思わず嘲笑が漏れた。
もう、家を出て二日だ。今頃探偵か誰かが血相を変えておれを探している頃だろう。
ならば捕まるのは時間の問題。どうせ連れ戻されるなら、今のうちに思いきり悪いことをして、両親の理想としてきた“いい息子”から脱出してみようか。
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