全身にキス ∵
それは、夕食の片付けをしていた時のこと。
「ねぇね、エレン。これってやったことある?」
「え?」
背後から声をかけられ、手を止めて振り返った。
そこには、大きく広げられた一冊の本。
見開きを大きく使って、男女が口づけする様子を描いた一ページだった。
(きゃああああ!!)
声にならない悲鳴をあげて、持っていた包丁を投げ、ふきんを巻き込み、そこに伏せておいた皿が雪崩を起こして、尻もちをついた衝撃で鍋が棚から降ってくる。
がらがらがっしゃん。がん、がん、がん……。目の前で巻き起こった大惨事を前に、さすがに彼も唖然と立ち尽くしていた。
「え、エレン? えっと……大丈夫?」
「ロ、ロビン君が、変なこと聞くから……!」
「えっ? 何が変なの?」
(なんだってこの人は、何もかもを知らないの!?)
黒の魔の森に住んでいたと聞いた時も驚いたが、何より驚きなのは、彼のある方向への無知さだ。
魔法に関しては賢者である祖父も唸るような知識を持っているかと思えば、人に関することは、極端に知らなかったりする。
初めて会った時、「女の子をちゃんと見たことがない」と目を丸くしていたことを思い出し、落ち着くためにも深く深くため息をついた。
「あ、あのね、ロビンくん。そういうことは、普通女性には聞かないものだと思うの……」
「え、そうなの? だってダナやホジじいさんは森の見回りに行っちゃったし、エレンしか居なかったからさ」
悪びれる様子もなくそう言いながら、砕けた皿や落ちた鍋の片付けを手伝い始める。
体の横に伸びてきた腕をなんとなく避けながら、そういえばそうだった、と自分の不運を恨んだ。
(ええい、こうなったら、同い年の男の子じゃなくて、小さい子に聞かせるんだと思って開き直ろう!)
「その本貸して、ロビンくん」
「うん?」
首を傾げる彼から受け取った本は、意外にも魔法書だった。お兄ちゃんが貸したいかがわしい本でなくて、ほっとする。
(なるほど、"魅惑の魔法"…――さっきのページは"魔女の接吻"ね。私に訊きにきても無理はないかぁ……。)
火照る頬は気のせいにして、どう説明するものかと説明書きを読み返す。
そんな私を知ってか知らずか、彼が肩越しにひょいと覗き込んできた。
顔が近くなって、思わず仰け反る。
「わかる? エレン」
「うーん……わかるけど、こんな魔法使っちゃだめよ。直接口から魔力を注ぎ込むことによって、そのものを魔女のとりこに……いわば支配するって意味だもの。人の思いを操るなんて、あんまり感心しないよ」
「ふーん。で、これって魔女だけじゃなくて魔法使いみんなが使えるの?」
(ちゃんと話きいてたのかしら……。)
もう、と内心腹を立てながらも、彼の修行のため、とこと細かに説明文を読み上げる。
時折、「どうして口からなの?」とか「魅了するってどういう意味?」など答えに詰まる質問も投げられたが、四苦八苦しながらなんとか講義を終えた。
理解したかどうか怪しいが、返した魔法書を眺めながら、彼は「なるほど」と満足げにうなずく。
そのグリーンの目がやけにキラキラしている気がして、私は慌てて付け加えた。
「で、でもね! これは誰彼構わず使っちゃいけない魔法なの! 魔法だけじゃなくて、せ、せ、接吻っていうのはね……!」
言っている自分の顔が、みるみるうちに赤くなっていくのを感じる。
もはや沸騰寸前の私をよそに、彼は指先で魔法書を辿りながらぶつぶつと呟いていた。
「ね、ね、エレン」
「なに?」
呼びかけに顔を上げると、ぐいっと顔を持ち上げられた。
ぽかんと開けた唇に何か押し付けられ、澄み切った森の空気のような清々しい魔力が突風と共に全身を吹き抜ける。
何が起こったのか理解した頃には、彼の満面の笑みが目の前にあった。
「明日の夕ご飯は、具がゴロゴロ入ったシチューがいい!」
茫然と立ちすくむ私に、命令が下される。
「……ん? エレン、きいてる?」
「えっ……あ……は、はい」
「よしっ、大成功! んじゃ、おやすみ。また明日ー」
固まる私の頭をぽんと撫で、彼は寝室に上がっていった。
ととと…と階段を駆け上がる音がする。やがて客間の扉の閉じる音を合図に、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
嵐の後のような散々な台所が、混乱する私の心のうちを上手に表している。
体を動かしたせいか、今まで堪えていた熱が、かっとつま先から頭のてっぺんを突き抜けた。
(あぁ、私のファーストキス!)
足をばたつかせて行き場のない憤りを発散させながら、感覚の残る唇を押さえた。
何もわかっていないとはいえ、これは酷い仕打ちだ。
(だけど、よりによって明日の献立のために!)
何か呪文を間違えたのか、幸い魔法にはかかっていないようだった。
特別大事にしていたわけではないが、思いがけないハプニングに大切なものを奪われ、怒りとも悲しみとも違う複雑な感情が頭の中を駆け巡る。
目をつむって爆発しそうな頭を抱えると、目の前でにっこり笑った、太陽みたいな笑顔が浮かんできた。
(やっぱり私――魔法にかかってるんだわ!)
この夜、沸騰を続ける頭を抱えて、うんうん唸り続けたのはもちろんのこと、
翌朝には必死になって“魅惑の魔法禁止令”を出し、
そして夕食には具沢山のシチューを山ほど作って、「もう無理」と言うまで食べさせたのは、言うまでもない。
これだからキミは目が離せないの。「#指定されたうちの子をキスさせる」みたいなハッシュタグより第三段。
この二人は王道少女漫画展開やってくれるから大好きですよ…(笑)
お義母さんが居たわけなので、ロビンもなーんにも知らないってことないと思うのですが、
同年代の男の子と比べたら異性関係の知識は幼児と変わらないんじゃないかなと思います。
エレンは粗大ゴミ。を代表するオカン女子なので、ちびっこみたいなロビンをほっとけないんでしょうねぇ。困惑しながら、赤面しながら、なんだかんだ結局きちんと教えてくれるエレンは本当にいい子だなーって思いますよ。(親ばか)
prev /
next