紅茶伯爵と忠誠の指輪 ∵
今日はアイリスの庭でお茶をしよう。
いつも通り両手を叩いて呼びかけたが、すぐに返事をするはずの元気の良い声は返ってこなかった。
どうしたことか。一度は腰かけた椅子から立ち上がり、伯爵は四番目のテラスを通って屋敷の中へ向かう。
客室、階段、ランドリー。声をかけながら彼女の居そうな場所を巡ったが、いつもならぴょんと飛び出てくるはずのメイドの姿はどこにもなかった。
いよいよ一番離れた台所へ顔を出した時、そこに彼女の姿はあった。
何やらシンクに向かってせっせと手を動かしており、たったひとりでうーん、やら、えいっ、やらと、気合の入ったかけ声をあげている。
「ニル、ニルギリ。どうしたんだい」
声をかけると、ニルギリは長い三つ編みを振って振り返った。
視力の弱い左目を補助するモノクルの奥で、琥珀の瞳が驚きに丸くなる。
「伯爵さま! も、申し訳ございません!」
珍しく慌てた様子で、ニルギリはきちんと両手両足をそろえて伯爵に向き直った。
その手から、ぽたり、としずくが落ちる。
働き者の小さな手には、見覚えのない色がきらりと光っていた。
「おや」
指輪だ。左手の薬指に、金の指輪がはめられている。
手が濡れているのは油のせいだった。どうやら指輪が抜けなくなったらしい。ニルギリは直立不動のまま、はきはきと自分の現状を主人に報告した。
きまぐれにやってくる伯爵の甥、ジョルジが今日もまたきまぐれにやってきて、「これをおじ様に」と指輪を置いていったのだそうだ。
青い石を嵌めた金の指輪は、なぜか泥にまみれており、伯爵に渡す前に布で拭いておこうとしたところ、「おぬし」と話しかけてきたのだという。
指輪が声をかけてきた。その話に伯爵はぱっと目を輝かせたが、すぐに訝しげな顔をし、次に苦虫を噛み潰したようななんとも言えない表情を作った。
「それで、ニル。君は指輪になんと言ったんだい?」
「私は、この屋敷のメイドだとお伝えしました。すると主人は誰だと問われたので、グレイ伯爵さまです、とお答えしたのです」
すると指輪は突然ぱっと光を発し、ニルギリに「忠誠を誓うか」と問いかけてきた。
思わず「誓います」と返事をしたところ、指輪は自らニルギリの指に飛びつき、あっという間に抜けなくなってしまったのだという。
慌てて声をかけてもうんともすんとも言わず、ここで小一時間、抜けない指輪と格闘していたのだそうだ。
伯爵は唇を尖らせたまま、ニルギリの油まみれの手を持ち上げ、指輪を眺めた。
白魚のような細い指には、あまりに不釣り合いな華美な指輪だ。試しに引っ張ってみたものの、まるで溶接したかのようにびくともしない。
困り果てた様子のニルギリに、伯爵は心配ないよと微笑むと、その手を引いて別の部屋へ向かった。
その際別の召使いに電話の用意を頼み、すぐさま長い電線をひいてやってきた電話の受話器を持ち上げる。
ソファに腰かけて待っていると、交換手を通じて事の原因が呼び出しに応えた。
「ジョルジ。これは一体、どういうことだい?」
『やあ、おじ様。今度の珍品はお気に召しました?』
「その君の持ってきてくれた珍品がね、ニルの指に飛びついて抜けなくなってしまったよ」
『へえ、そりゃあ』
別段驚いた様子もみせず、気の抜けた返事が返ってくる。
伯爵はやれやれとため息をつき、頭を抱えた。
「ジョルジ。あれはもしや、“忠誠の指輪”じゃないかい?」
その言葉を聞き、電話口の向こうで『ほう』と感心の声があがった。
『そういう名前だったんですか? いやね、実はある女性に頂いたものなのですが、この指輪を嵌めて生涯自分を愛してくれと言われたので、それは出来かねるってお断りしたんですよ。世界中のレディーにドレスを着せるまでは無理だってね。そうしたら彼女、怒ってどこかへ消えちゃいまして。その途端ぴったりだった指輪は急に指から抜け落ちて、赤かった石が青く染まったんです。だからこれは珍品だと思って、そちらにお届けしたわけですよ』
「ジョルジ。気持ちは嬉しいが、君は不注意すぎた。皆君のように淡泊なわけじゃない。おかげで純粋なニルが指輪に囚われてしまったよ」
『失礼な。俺だって乙女のように純粋です。ところで、“忠誠の指輪”をご存知だったんですか?』
「あぁ、一度この指輪を作った者に会ったことがあってね。かつては従者を無理やり従わせるための呪いの道具だったんだ。ひとたび誓うと口にしてしまえば、主人の命に反することはできず、命を落とすことさえ躊躇わなくなると言っていた。従者と言えば聞こえはいいが、ようするに死すら厭わない奴隷を作る道具だ」
『よくご存知で。それなら、指輪を取る呪文か何かも聞いているのでは?』
「まさか。彼女は用心深い人だった。それにあまり具現化してくれなくて……」
ぶつぶつと文句を言う伯爵の側で、ニルギリは油を落とさないようエプロンで腕を包み、二人の会話が終わるのを待っていた。
その時、玄関のほうでけたたましくベルが鳴った。またも気まぐれにやってくる来客の声がして、案内を待つことなく足音が近づいてくる。
ニルギリが慌てて迎えに出ると、赤毛の少年が廊下を走ってきていた。自分に頭を下げる他の召使いたちには目もくれず、ニルギリを見つけて駆け寄ってくる。
ニルギリはエプロンを広げて膝を折り、深々と来客に頭を下げた。
「ごきげんよう、ダージリンさん」
「ニル、伯爵は? ったく、何がお茶に来いだよ! 庭で待っててやったのに、本人がいつまで経っても来ないんだからな」
「ああ、申し訳ございません。それは私のせいなのです!」
突然地面につくほど頭を下げられ、ダージリン少年は困惑気味に体を引いた。
「べ、べつにニルのせいじゃないよ。もとはといえば、伯爵が急に……」
「おや、ダージじゃないか」
けろりと声をかけられ、ダージリンはキッと声のほうを向いた。
のんきにソファにもたれて、誰かと電話で話している。
立ち上がることも会釈もせず、ひょいと手を上げただけで挨拶を済ませた屋敷の主人に、ダージリンはカッカしながら近寄っていった。
「急に呼び付けといてなんなんだよっ! あんたのお茶会に毎回付き合ってられるほど、おれは暇人じゃないんだからな!」
「おっと。これはこれは、とんだ失礼を」
ようやく立ち上がって軽く膝を折り、伯爵は胸に手を当てて深々と礼をした。
その途端、はっとしたように顔をあげ、子供のようなまん丸の目で目の前の少年を見つめる。
「そうか、そうか!」
突然両手を叩くなり、伯爵は少年をすり抜けて廊下にいるメイドに駆け寄っていった。
そしてその足元に跪き、うろたえる少女をにっこりと見上げる。
「は、伯爵さま! そんなところに膝をつかれては……!」
「ニル、指輪が外せるよ。さあ、手を」
伯爵が手を差し出すと、まるで糸で引っ張られたかのようにニルギリの左手がぴんと突き出た。
まだ油の残る手にためらうことなく指をかけ、その薬指に光る金の指輪にそっと口付ける。
「さあ、君は自由だ」
唇が離れたとたん、あれほどきつかった金の指輪は、気の抜けたようにすとんと落ちていった。
ニルギリは手を差し出したまま、呆然と絨毯に埋まる指輪と伯爵を見つめる。
「な、なんなんだよ、一体……?」
硬直しているニルギリに代わり、状況の全く理解できていないダージリンが呟いた。
「やあ、呪いの指輪がニルの手に噛み付いて取れなかったんだ。主人である私がニルに跪いたことで、おそらく主従の呪いが解けたのだろう」
「の、呪いって!? あんた、また変なもん出したのかよ!」
「それは心外だ。私のコレクションはどれも良心的なものばかりなのに。ニル、指輪は宝物庫の奥の棚にね。しっかりと封をかけておくれ」
「やっぱりとっとくんじゃないかっ!」
噛みついてはひらりとかわすいつもの会話を聞きながら、ニルギリはエプロン越しにそっと指輪を拾い上げた。
まるで主人の瞳のような深い青色だった宝石が、ゆっくりとエメラルド・グリーンへと姿を変えていく。
「伯爵さま。私、ほんとうにご迷惑を……」
「ニル、今回のことで君が謝る必要はないよ。むしろ素晴らしい事に気付かせてくれた。誓いの指輪などなくとも、君はずっと私の側に居てくれている」
大きな手にぽんと撫でられ、ニルギリは一瞬泣きだしそうに顔を歪めた。
それでも、日だまりのような温かい微笑みにつられ、彼女らしい太陽のような笑顔が戻ってくる。
その横で不機嫌そうな曇った顔をしていた少年も、よく似た笑みを交わす主従を目の前に、少しだけ口元を綻ばせたのだった。
40分以内に1RTされたら、電話の前で、笑いあって指にキスをするグレイ伯爵とニルギリをかきましょう。
(お題元:http://shindanmaker.com/68894)
と、いうわけで、即興短編(笑)思ったより長くなったのは、霞ひのゆ作品の仕様だよ!←
この二人にキスをさせるなんて、とてもとても思いつかなかったけれど、
伯爵さまお得意の“珍品”を潜り込ませれば、あら不思議。すぐに物語が思い浮かびました。
王道だけどね(笑)
RTしてくれたさいふぁさん、ありがとうございましたー(*゜∀゜)ノシ
***霞ひのゆ
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