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目じりにキス 


(眠っているんだわ……。)

 瞼を伏せたその顔を、起こさないようそっと覗き込む。
 バルコニーに繋がるガラス窓からの月光が、青白い頬を艶やかに照らしていた。
 帰ってきた、と気付いた途端、もう大人しくベッドに横になっていることなんてできなかった。
 とっくに寝静まった人々を起こさないよう、裸足のまま廊下に飛び出す。
 昼間の自分からは、まるで想像もできないような行動力だった。
 ただ、無事を確かめたかった。今日も何ごともなく帰ってきてくれた。それだけを確認したくて、勇気を振り絞って寝室を尋ねたものの、そこは蛻のからだった。
 その時、かすかに音が聞こえたような気がした。弦楽器の弓を一度だけ引いたような、小さな小さな音色。
 その音の端を離さんとしながら、見えない糸を必死に辿る。
 着いた先は、屋敷の端に設けられた小さな温室だった。

(寒く、ないのかしら……。)

 窓辺に置いた安楽椅子にもたれながら、彼は眠っていた。
 日光を極端に嫌う彼が、空を見上げる唯一の時間。それが今だったのだろう。月を眺めながら眠りに落ちた彼の横顔は、どこかあどけなさを残し、可愛らしいとさえ思ってしまった。
 薄く開いた唇から寝息が漏れ、顔にかかった前髪を揺らす。
 じっと寝顔を見つめるうちに、切ない気持ちがぎゅっと胸を締め付けた。

(どうして、どうして彼なのだろう……?)

 涙が溢れそうになり、慌てて飲み込む。
 だめ。ここで泣いてはだめ。ほんの少しの呼吸の乱れも、きっと彼は気付いてしまう。
 目をつむり、静かに呼吸を整える。そして、せめて起きた時使ってもらえればと、羽織ってきた肩かけに手をかけた。
 その時、がしりと手頸を掴まれ、思わずか細い悲鳴が漏れた。
 月光を映すムーン・グレイの瞳。瞳孔の細いその瞳が、こちらを見上げていた。

「僕を殺すつもりなら、もう少し遠くから狙って」
「そ……そんな……! わた、わたし……」

 弁解しようとしても、驚く胸を抑えるのに精一杯で、何を言うべきかいっぺんに忘れてしまった。
 目をそらし、ふう、と彼がため息をつく。そしてくしゃりと髪をかきあげると、安楽椅子から立ち上がった。
 役目を果たせなかった肩かけが、足元へ滑り落ちていく。

「あ、あの、どちらへ……?」

 歩き出した彼を追い、慌てて駆け出した。
 彼はテーブルに投げたコートを拾い上げ、しゅっと腕を通す。

「仕事。ついてこないで」
「そ、そんな……もう少し、お休みになったほうが……」
「起こしといて、よく言うよね」
「す……すみません……帰られたかどうか、確認したくて……」

 言い訳をしながらあわあわと後を追っていくと、彼は扉の手前でくるりと振り返った。
 石のような冷淡な瞳が、じっとこちらを睨みつける。

「家を貸してくれていることには感謝してる。でも、君は依頼主でもないし、逐一報告する義理もないよね」

 突き付けられたのは、はっきりと「苛つき」や「嫌悪」の込められた声。
 その冷たさにぞくっとして、堪えたはずの涙が、ぽろりと溢れてしまった。

「あ……」

(だめ、泣いてはだめ。)

(また呆れられてしまう。何も言えなくなってしまう……――。)

 しかし、止めようと思えば思うほど、涙は意思に反して流れ落ちる。
 必死に涙を拭っているうちに、彼は再び背を向けて歩きだした。
 遠ざかる背中を、慌てて追いかける。

「ま……待って! 待ってくださ……――あっ!」

 その時、寝巻きに足がもつれて、バランスを崩してしまった。
 何か目もとを鋭いものがかすめ、次に微かな痛みが走る。
 とっさに伸ばした手も間に合わず、冷たい床に叩きつけられるかと思いきや、気づけば彼の腕の中にいた。

「何してるの」

 耳元で響く低い声に、思わずびくりとする。
 抱きとめてくれたのだ。あまりの恥ずかしさに、顔を真っ赤にしながら「ごめんなさい」と立ち上がる。
 すると、目元からつっと血がこぼれた。
 鉢植えの葉の先で切ったのだろう。浅い切り口に涙がしみて、思わず顔をしかめる。

 その時、目元に冷たいものが当たり、次に小さく音を立てた。
 顔が離れて行く時、ようやくキスをされたのだと理解する。
 理解はできても、思いがけない行動に固まる私に、彼の唇はクスッと笑った。

「……大人しくベッドに戻ってよ」

 再び額に唇が当たる。

「おやすみ、アリス」

 耳の奥にじんと残る声を残して、彼は静かに扉を閉めた。
 結局、引きとめることも、彼を癒すこともできなかった手で、感覚の残る目じりに触れる。
 まるで幼い子にするような簡単なキスに、心臓は狂ったようにばくばくと胸を打っていた。

(行ってしまった。)
(また引き止める事が出来なかった。)
(結局私は、彼の負担にしかならないのだろうか……。)

 役立たずの震える指を、ゆるく握り締める。

「行かないで……」

 ぽつりと零した声が、誰もいない温室に響いた。







「#指定されたうちの子をキスさせる」みたいなハッシュタグより第二段。
アリスがいっくら勇気を振り絞ったって、アルベールはひらりひらりとかわしてしまう。
時たまこうしてアリスのちっちゃな心臓が爆発しそうな悪戯をしかけたりするから、こちらもハラハラものですよ(笑)
今回アルベールがラドウィッヂ家のお屋敷にお泊まりさせてもらってるって設定だったけど、ちょっと無理やりだったかな…。
まだ本編では言葉も交わしていない二人ですが、早く会わせてあげたいなぁ。

この二人は、完全にアリス→アルベールの一方通行なので、時々本当にアリスが可愛そうになります。
まったく靡かないんだものね、彼は。
何せ他人に興味のない彼ですが、女の子をいじめることだけは好きなようなので(笑)
相手してくれるだけ、まだ希望が持てると思っていいような気がしますよ。
はてさてどうなることやら。

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