龍臣と出会ってから、三度目の夏を迎えようとしていた頃のこと。
いつもの気配が森に駆け込んで来た感覚に、目を覚ます。やれやれ、今にあの甲高い声に呼ばれるに違いない。案の定、「ニシーーッ!」と呼ぶ声が森に響き、驚いた海鳥が一斉に飛び立った。
昨晩、久々に顔を見せた餓者髑髏と散々飲み明かしたせいで、その声はひどく角に響いた。妖力を封じられたからとて、飲み比べには負けぬと、つまらぬ意地を張った報いだ。
不快感をやり過ごし、森の外へ迎えに出てやる。すると龍臣の後ろに、見慣れぬ客の姿があることに気づいた。
もう二人、いや、一人と、一枚とでも呼ぶか。

「ニシ! おはよう。顔色が悪いけど……大丈夫?」
「なに、大したことではない。……して、それはどういうわけだ、龍臣?」

涼しげな紗の着物に身を包んだ龍臣の背後には、深々と頭を下げる乳母のトミと、そしてもうひとつ、トミに支えられるようにしてやっと立つ、小柄な娘の姿があった。
小娘は、この夏の最中だというのに、花柄の古い袷を着せられていた。それにしては汗ひとつ浮いていない肌は一度も日に触れていないような青白さで、溢れそうなほどぎょろりと剥いた目が、娘の異様さを際立たせる。
その額には、海藻色の髪に埋もれるようにして、小さな角が生えていた。

「あのね。ニシ、お願い!」
「断る」
「まだなにも言ってないよ」
「みなまで言わずとも、お前の考えていることなど見え透いておるわい……やれやれ、そのさざえを海に返してこい。さもなくば、壺焼きにでもして喰うか」

そう言った途端、ちびのさざえは潰れた蛙のような声をあげ、乳母の後ろに飛び退いた。
言葉はわかるようだ。見たところ、この小娘はまだ満足に人に化けきれもしない、妖怪になったばかりの栄螺鬼だ。
栄螺鬼は美女に化け、人間の男を誘惑して海に誘い込み、喰うというが、この粗末な様では、まだ人を喰ったことはないのだろう。
地団駄を踏んでいる龍臣に代わり、控えていた乳母がおずおずと口を開く。

「部を弁えず、大変なお願いとは存じますが、この子をどうか、あなた様の子分にしていただく訳にはまいりませんでしょうか。他のさざえに紛れて厨にやってきたところを、わたくしがうっかり焼いてしまったのでございます」
「は、人を喰う前に、人に食われかけた間抜けな栄螺など、子分にしたところで何の得がある」
「ですが、見たところこの子は人間ことも、あなた様のような方のことも、この世のことを何もかも知りませぬゆえ、誰かが教えてやらねば、この先どうなってしまうことかと……」

そう言って乳母は、困り果てた様子で龍臣のほうをちらと見た。
やれ出た。嫌な予感はしていたのだ。この乳母が関わると、どうも手のひらで転がされているような気がしていけ好かん。下手に出ておきながら、最後には己がうまいこと話を纏められてしまう。
言葉にせずとも、言いたいことはわかった。確かに、この小妖怪を野放しにしておけば、将来龍臣に危害を加えぬ可能性がないわけではない。しかし……。


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