「あのう……大丈夫、ですか?」 おずおずとかけられた声が、記憶の濁流から意識を掬い上げた。 どうやら頭を抱えていたらしい。強く突き立てた爪が皮膚を切り、流れた血が顎を伝って汗と混じり、土の上に落ちた。 傷が癒えると共にぶれていた視線が定まり、心配そうに見上げる小僧の顔に焦点が定まる。 こいつはこんな風に、柔らかそうな丸こい頬をしていただろうか。 「やめましょうか?」 問われたが、言葉が出てこない。 重い腰を引きずって座り直すと、それを肯定と捉えたのか、小僧は再び本に目を落とした。 「じゃあ、続けますね――この土地に伝わるお話では、この粋という人も、結局牛鬼に殺されてしまい、刀は鬼に奪われたとありました。そして村人はついに土地を捨て、二度と鬼の住処には近付かなかったと……。今では、これはあくまでおとぎ話だと言われています。でも、ご先祖様はこの短刀を手に入れたことで、その伝承は真実で、言い伝えには誤りがあるのではと思ったんです」 “粋”という名の男がどう鬼と対峙し、その後本当は何が起こったのか。 そして言い伝えでは語られることのなかったその男の名前を、龍真は調べ、辿り着いたのだと小僧は言った。 龍真は粋という男の足取りや、各地に残る牛鬼の伝承を集め、やはり男は牛鬼を殺したのだという確信に至った。 そして、今、自分が買ったこの土地に住む鬼の正体が、おそらくその男だということにも。 だからこそ龍真は儂との交流を続け、執拗にあの短刀について問うてきたのだろう。 龍真は、儂が自力で記憶を取り戻すことを願っていたらしい。儂が記憶を取り戻し、人の心を思い出したなら、きっと牛鬼は良い守り神となるだろうと、友に宛てた手紙にあったという。 何を勝手なことを。強欲な奴のことだ、記憶を取り戻させてやった代償に、永遠に己の土地を守ってくれと願うつもりだったのだろう。 しかし、やはりその交流を危険視していた仲間もいたという。昨日儂が燃やした文は、そういった輩に宛てた手紙だった。 「この研究者さんは祓い人だったみたいで、あなたは過去の記憶を覚えていないようだけれど、もしあなたが真実を知って暴れたりしたら、止むを得ずこの札を使って封印するつもりだとありました。念のため本物かどうか、確認してくれってあの手紙には書いてあったんです。本物だった、みたいですけど……」 龍真に初めてその短刀を見せられた時のことを思い出す。この体の深くに眠る記憶に、ちくりと触れた時のことを。 見覚えはないか、と言った時、龍真は儂の目の中に何を見ていたのだろう。 ふう、と息をつき、小僧は本を閉じる。そして儂の目をじっと見上げた。 「このお話は、本当ですか?」 「……龍真が儂にくれようとしていたのは、この名か」 「うーん……本当のことは、よくわかりません。遺言も、何の準備もない、突然死だったそうです。ご先祖様は、他にあなたにあげたいものがあったのかも……でも、あなたが驚くような贈り物だって聞いていたから、僕はきっと、これだと思ったんです。驚きましたか?」 「ふん……不本意だがな。確かに驚いた」 「それはよかったです。それじゃあ僕は、約束を守れましたか?」 小僧が龍真の手記を差し出す。それに手を伸ばし、鋭く尖った指に目が止まった。 この手がもう少し小さかった時、きっと再び、と掌を合わせ願いあった、大事な約束を思い出す。 しかし、あまりに時が経ち過ぎた。たとえどんな形でも待っていてくれたとて、この姿では、あの人との再会はもう永遠に叶うまい。 あぁ。儂は。私は。俺は。 無数の人を喰い殺した、ばけものだ。 (15/43) 前へ* 最初へ *次へ栞を挟む |