さらさらと降り注ぐ雨は、抱擁のように柔らかだった。
「これは、雨降り花というのです」
摘むといつだって雨が降りますから、と。
あまりに安直な呼び名に、小さく笑みがこぼれた。
「わかりませんよね、あなたは花の情緒などという繊細なものには、縁のないひとですもの」
馬鹿にする気はなかったのだが、相手はこちらに悪意があるととったらしい。口調にはとげが隠されていた。
「わかろうという気も、ないでしょう」
寂しさをにじませた言葉に返す、無言。千言より雄弁な肯定だった。
なにせ雨はもう降っているのだ。まだ地に根を張っている花を摘めば、どうなるというのか。
慈雨は世界を流す、豪雨となるのか。
そんなこと。
…………
重たく濡れた朝の空気は嫌いだ。いつも以上に身体が動かない。
カーテンを少し開いて確認した屋外は、厚い雲にのしかかられていた。細い雨粒が家々の屋根をたたき、アスファルトをうがとうとしている。
重い足を引きずるようにして、玄関の扉を開けた。いつもと変わらない、猥雑な町並みと、不ぞろいな足並みの人々。
百の花を思わせる傘の群れが、せわしなく流れていく。
同じ雨に打たれているはずなのに、どうしてか彼らは物言わぬ家屋と違い、きらきらと輝いて見えた。
嘆息をひとつ。
ビニール傘を開き、きらめきの中に踏みだした。
絶えず落ちてくる水の弾から身を守ろうと、傘を盾にして歩く。
風向きによってはコートが濡れてしまいかねないので、自然と早足になった。
みんな、同じような理由で急いでいるのだろうか。雨と風を、気にして。
そんな風に考える自分がおかしくて、つい口角をあげてしまった。襟を無理に引っ張って口元を隠す。
傘に落ちた雨粒が音をたてて弾ける。さあさあと、砕けて、散って、透明な粒なり、やがてきわめて小さな川のようになったのが、傘の内側から見える。
また笑みがこぼれた。今度は隠さない。
絶えず繰り返される雨音はまだ緩やかで、歌声のようだ。
一度考えはじめればそれはほんとうに音声のような気がして、肩越しに振り返る。
赤いワンピースの、見知らぬ女性がスマートフォンをいじりながら、レインブーツで水たまりを蹴る。
あたりまえだ。見知った誰かなんているはずがない。
雨はなおも、さあさあと楽しげに降り続けていた。
…………
その日、空の歌はやまなかった。
誰もがひとりきりで、冷たい雨の呼びかけを背中で受けとめた。
今朝のように後ろを見ることはせず、濡れた傘をくるりと回す。滑ったしずくが、ふちから灰色の地面に落ちる。
とまった傘にまたいくつもの雨がのる。
歌唱していた雨は、昼を姿あたりから絶叫に変わっていた。ざあざあ、世界を流さんばかりに、降る。
それでも垂れこめた雲のうえには太陽があるらしく、西の空はほのかに赤い。ひょっとすると、どこかに曇天の切れ目があるのかもしれない。
ならば、明日の天気はどうなるのだろう。淡い期待をのせて、落日を見守った。
街灯に電気の光がともっていく。星のない夜がきた。
時計に目をやれば、思ったとおりの時刻。仕事を終えた充実感が全身を包むようで、心地よい。
少し力をこめて玄関扉を開く。朝と変わらない、濡れた空気が足元からたちのぼった。
閉じた傘から水滴が落ち、床に水たまりができていく。
適当なところに雨から自分を守ってくれたものをたてかけ、コートに付着した雨水を軽く払った。
音をたてて扉が閉まる。自身しかいない一室が、静寂にのみこまれる。
物寂しさを感じた。なれたものだろうと言い聞かせ、施錠音で虚無感を払拭しようとする。
視界の端に、傘と、花のごとく広がった水が映った。遠い記憶がまぶたの裏によみがえる。
そう、たしか、雨降り花という名だった。摘むと雨が降るからという、安直な。
「わかろうという気も、ないでしょう」
優しい雨に似た、心にすっと染みいってくる声音。扉の向こうの篠突く雨と同じくらい、遠いはずの、声。
ゆるく頭を振って幻聴を追い払う。雨音は遠い。これでいい。
振り切った気になって、今度こそ鍵をかけた。一瞬だけ静寂が破られる。顔をあげ、廊下を渡る。
しかし、カーテンを開けたままの寝室につくと、またうつむいてしまった。
慈雨から豪雨への変化。あのとき、雨降り花を自分も、あの子も、摘まなかったけれど。
手折っていれば、今日のように天気は移り変わったのか。
雨の音はわずかしか聞こえない。朝までにはやむのだろうか。
もしかしたら、世界を流し終えるまでやまないのかもしれないと、過ぎし日の面影を脳裏に描きつつ、考えた。
10/20 愛木灯菓
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