08


静寂の中、雨は抱擁のように柔らかだった。


「これは、雨降り花というのです」


この花を摘めば、雨が降るんです。だから……。
なんて安直な、しかし、悪くはない。思わず笑みがこぼれた。
「花の抱く繊細な情緒に縁のないあなたには、どれほど時間を費やしても分からない事でしょうけど」
笑ってしまった事で機嫌を損ねてしまったのか、抑揚のない澄んだ声は、僅かに棘を見せた。
「わかろうという気も、ないでしょう」
どこか寂しさを帯びた、棘など感じさせない普段通りの澄んだ声だった。確かに、その通りだ、否定はしない。
柔らかい雨音の抱くこの沈黙の中で、ふと考える。摘めば雨が降るという この花を今手折るとどうなるのか。
慈雨という言葉とはかけ離れた、何もかもを流し尽くすものへと変わってしまうのだろうか。
柔らかな雨の中、濡れた花を静かに眺め続けた。




…………




ぱらぱらと雨粒が屋根をたたく音が聞こえる。こんな重く濡れた朝の空気は嫌いだ。体も重くなる。
カーテンを開き確認した屋外は薄暗く、空はやはり厚い雲が覆っていた。
なんの感情も感じさせない冷たいだけの雨が、薄暗い空から降り続けていた。
無言でゆっくりと玄関の扉を開けた。
雨が降っていても変わらない、朝の街の風景がそこにあった。

百の花を思わせる傘の群れが、せわしなく流れていく。
どんよりとした空気を纏っている街とは対照的に、そんな彼らは何故かきらきらと輝いて見えた。
自然と嘆息が漏れる。
傘を開き水溜りを避けるようにして、きらめきの中へと足を踏み出した。

相も変わらずに雨は同じ調子で振り続けている。傘を持ち直してまた歩く。
風が少しだけ強くなった。コートが濡れてしまうかもしれない。ほんの少しだけ足を速めた。
もしかすると、今歩いている人々はみな同じ理由で急いでいるのかもしれない。
そんな事を考えるのはらしくないか。いつの間にか浮かんでいた笑みを襟で隠した。
雨粒が傘の上で弾ける。さあさあと、砕けて、散って、 透明な粒なり、やがてきわめて小さな川のようになったのが、傘の内側から見える。
そう感じたのが自分でも面白く、また笑みがこぼれた。
雨音は緩やかなままで、歌声のように綺麗だった。
いつのまに雨音は歌に変わったのだろうか。本当に誰かが歌っている気がして、振り返る。
スマートフォンを触っている女性、俯いたままゆっくり歩いている男性。水たまりを蹴飛ばしている学生。
彼らは今何を思い、降る歌声の中を歩いているのか。仮に知人が隣にいれば、訪ねているだろう。
ただ、ここには当然知った顔なんていない。
雨はなおも、さあさあと楽しげに降り続けていた。




…………




雨はやむことなく振り続けた。
冷たい雨の声を受けとめた者は皆、ひとりだった。
帰路、傘をくるりと回して滴を落とす。色のない地面に出来た水たまりに波紋が増える。
また、傘には雨粒がのり、また雨粒を落とす。
朝はあれほど穏やかだった雨は、昼の時間からゆっくりと絶叫のようなものへと変わっていった。
重々しく厚い雲の上には太陽があるようで、西の空のを僅かに赤く染めていた。どこかにこの曇天の切れ目があるのだろうか。
だとすると、明日の天気は、と淡い期待を抱きながら、しばらく空を眺め、また傘を回す。


薄暗かった街に夜の帳が訪れ、街灯には光がともる。
時計に目をやれば、思った とおりの時刻。仕事を終えた充実感が全身を包むようで、心地よい。


玄関の扉を開くと、朝と変わらない濡れえた空気が迎えてくれた。
適当なところに傘を立て掛け、コートに付着した雨水を払う。傘の下には小さな水たまりができていた。
扉が閉まると雨音が遮られ、同時に部屋が静寂に呑み込まれた。
とたんにどうしようもない寂しさを感じた。鍵を手に取り扉と向き合おうとするとき、視界の隅に濡れた傘と水たまりが映る。
水たまりは小さな花のように広がっており、それがいつかみた花を連想させた。摘むと雨が降る花。名前は、たしか。
たしか、雨降り花。安直だと、思わず笑ってしまった事を覚えている。


「わかろうという気も、ないでしょう」
抑揚のない、澄んだ声。いつかの雨音に似た、柔らかで優しい声が聞こえたような気がした。
頭を軽く振り、懐かしさを振り払う。雨音は扉の向こう、遠くに聞こえた。
鍵をかけると一瞬だけ、硬い音に静寂が破られた。顔をあげて、廊下を渡る。
寝室につくとカーテンを閉め忘れていた事を思い出した。
窓から見える街灯、家の窓から見える明かりが余計に心を虚しくさせ、また俯いてしまう。


あの柔らかな雨を浴びている雨降り花を自分も、あの子も摘まなかった。
もし手折っていれば、あの慈雨は今日のような豪雨へと変わったのだろうか。
カーテンを閉める、雨音はわずかしか聞こえない。明日の朝には、止んでいるだろうか。
それとも本当に、何もかもを流しつくすまで……。目を閉じて、もう一度あの時の記憶を追いかけながら考えた。



10/24' れいむ

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