06


  それは、とある雨の日。
「これは雨降り花というのです。」
摘むと雨が降るから、と。
あまりに捻りのない呼び名。
「わかりませんよね、あなたは花の情緒などという繊細なものには縁のないひとですもの。」
そんなこと、わかろうという気もしない。
雨はもう降っているのだ。これを摘めば雨が降る、なんてこと。
そんなことは。


………

朝の空気はじっとりと重たく濡れていて、身体は自然と動かしづらくなる。
まるで空が厚い雨雲で封をされていて、その雨雲が落とす影に家が包まれてしまっている様な。
それでも家の扉を開けて見えるのはいつもと変わらない、綺麗で汚い賑やかな町。
同じ雨に打たれているはずなのに、この家とは違う光を浴びてきらきらと騒がしく輝いている。
そんな町へこれから、雲の封を破って出て行くのだ。

絶えず落ちてくる水の弾から身を守ろうと、傘を盾にして歩き出す。
背中はコートの鎧で守っているけれど、これではどうも頼りない。少し早足になる。
そんな自分が可笑しくてつい上がってしまう口角。それを隠すようにして、襟を無理に引っぱって口元を隠す。
傘に落ちた雨粒が音を立てて弾ける。心地よい音に合わせて砕けて散っていく透明な粒が傘の内側から見える。
また、笑みが零れる。こんどは隠さない。
ぽつりぽつり、と。絶えず繰り返される音はまるで呼び声のようだ。
そんなことを考えはじめればそれはほんとうに声のような気がして、肩越しに振り返る。
そこにはなにもいない。当たり前じゃあないか。雨はなおも声を上げて降り続けていた。

……

その日はずっと、呼び声につきまとわれていた。
冷たい水の呼びかけをみんな背中で受け止めているのに、それでも一人きり。
声に答えることもなく、濡れた傘をくるりと回す。雫が滑り、するりと落ちていく。
僅かな反動の後に傘が止まれば、またすぐに水が乗る。
雨はまだぱらぱらとやかましいが、雲の向こうからはぼんやり西日が透けている。向こうには雲がないのかもしれない。
それならば、明日の天気はどうなるだろう。淡い期待を乗せて落ちる日を見送る。当然、星はひとつも見えなかった。
もう夜だ。わかっていながら時計に目をやる。思った通りの時刻。仕事を終えた実感とはこういうところにあるものか。

少し力を込めて玄関扉を開く。朝と変わらない濡れた空気が足元から立ち上る。
閉じた傘からぼたぼたと落ちる水で床が濡れていく。適当な所に傘を立て掛けてコートの上の水を軽く払った。
音を立てて扉を閉める。人のいない建物が静寂に飲み込まれる。
やや物寂しさを感じさせるそれを施錠音で破ろうとして、ふと視界の片隅にあるものが目に付く。
透明な傘の先からじわりと広がっていく水溜まり。それは遠い雨の日の記憶を呼び起こした。
そう、雨降り花というのだったか。それを摘むと雨が降るから。
背中から呼び掛ける、近くて遠い雨。遠いはずの声。
振り切るように顔を上げて、緩く頭を振り確かな血のめぐりを感じる。
今度こそ。かちゃり、と確かな音で静寂を破って廊下に上がる。さっき上げたはずの顔はいつの間にか下に向いていた。
雨の音は聞こえない。朝までには止むだろうか。


10/16 渡部アクサ

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