これは雨降花というのだそうよ。
そのままじゃあないか。
貴方には花の情緒が解らないのね。
わからないとも、彼は雨の降る空を仰いだ。わからないとも。
さみしい朝であった。
厚い雲の無彩色が街の鮮やかさを際立たせる。庭の合歓、水銀灯、真鍮の取っ手、路地裏には猫。それらは黄緑いろにひかる街へ当然のように溶けていた。
用事を済ますため、彼は柄の曲がった傘を開く。億劫そうに丸められた背中は外套に包まれていて、さぞ滑稽だろう。さぞ、哀れだろう。舗道にぽつりと佇む自らを思い、彼は引き攣るように口角を吊り上げた。調和のとれた光のなかにうっかり墨を垂らした輩は罪深い。墨は外套の襟を整えてゆらゆらと歩き出す。混ざれないじゃあないか。
彼の大きな体を覆う傘で雨粒が跳ねた。ぱらぱらと鳴る。彼は薄く微笑み、耳を傾けた。それらとたわむれているうちに、彼はある考えに至る。その音と振動とは彼を振り返らせるためのものではなかろうか。彼の肩を叩くべく、遣わされたのではないか。
振り返る。雨にけぶる視界には何者も現れなかった。からかうような雨音に彼は動じない。思い過ごしには慣れている。
彼が用事をこなすさまは孤独で、無機質であった。前を見据えた目はもう振り向く気配も無く、雨音は二度目を待って騒ぎ続けている。
彼は傘を回した。望み通りに雨音は途切れる。傘の上に溜まった粒が転がり落ちたように思われた。しかしそれらはすべて一瞬のことで、やはり雨が黙る気配は無い。
彼が無意識に拾い上げる旋律は気まぐれで、屹度、彼以外には届かない。
薄くなった雲を透かして、去り際の太陽は空を金いろに変えていた。やくたたずで美しい光は地平線に消えて、街は薄闇に包まれる。彼は腕時計を一瞥して、ようやく仕事の終わりを知った。
その日の予定をすっかり済ませてしまった彼は自宅の戸を開く。傘を閉じて外套の水滴を払いながら戸を閉めた。雨音がぱたりと止む。同時に施錠しかけた手が動きを止めた。
閉じられた傘から滴る雫が床に染み込む。まばたきを忘れた彼の目がちり、と焼けた。
惜しい、名残惜しい。雨降花というのだそうよ。振り向かせたいのか、呼んでいるのか。解らないのね。わからないとも。
天井を見上げて、かぶりを振る。いつの間にか力を込めて戸にかけていた手をおろし、彼はいっそう背中を丸めて部屋の奥へと進んだ。
戸を隔てた向こうでは、雨が降り続いている。
13'10/5 傍
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