またあした



ひゃあ、小さな悲鳴を聞きつけて僕は扉を開ける。
ベッドの上で上半身を起こした女性は怯えた眼で僕を見た。
慣れっこになった笑顔を浮かべて僕は彼女に話しかける。


「おはよう、気分はどう?」
「いや、なに……?ここはどこ、あなただれなの」


震える声で問いかけてくる彼女にできる限り穏やかな声色で答える。


「僕は君の恋人……というか婚約者だよ。覚えていないかな」


信じられないものを見る目を僕に向け、彼女は「あなたみたいな人知らないわ!ここはどこ、私は何でこんなところにいるの」と言った。
彼女の言葉に嘘はない。
ただし、僕の言葉にも嘘はない。


「ここは僕と君が住んでいる家だよ。君は記憶が1日しかもたないから、びっくりしているだろうけどね」


まぎれもない事実だから、目を見て話す。
おろおろとした様子で僕から目をそらした彼女に苦笑が漏れた。


「何か一つでも思い出せる?」
「だめだわ、何も思い出せない。私、本当に記憶がないの?」


「思い出せないということはそうだね」と返せば「そんな……」と呟く。
残念ながらすべて事実だ。
彼女のこのリアクションも、僕が知る限り相当回数のものになる。
彼女はいつもこうやって、事実を告げた時におろおろとして、受け入れがたい現実から目を逸らそうとする。
僕ももう慣れているから、それに対しては何も思わない。
もう一度にこにこと笑いながら話しかける。


「とにかくご飯を食べよう。おなかがからっぽだと悪い考えしか出てこないからね」


無言で頷いた彼女を伴ってリビングに移動する。
いつも朝食は彼女の好きな和食だった。
ご飯に、油揚げのお味噌汁に、焼き鮭、ちょっと甘めの卵焼き。
僕は出汁巻のほうが好きなのだけど、彼女は出汁巻を出すたびに不服そうな顔をしていたものだからいつからか僕らの食卓に上るのは甘い卵焼きになった。
彼女を席に座らせて、僕も対面に座る。
いただきます、と言えば彼女もためらいがちに手を合わせた。
彼女が僕よりも早く食べ物を口にしないことは知っているので、特に言葉をかけることもなく食べ始める。
しばらく僕が食べるのを見ていた彼女は恐る恐ると言った様子で卵焼きを口にした。


「おいしいわ……私の好きな味」


ふっと彼女の警戒心が緩む。
これもいつものことだった。
甘い卵焼きはきっと彼女の幼少期から彼女のお母さんが作っていたものによく似ているからだろう、記憶がなくても舌が覚えているようだった。


「だろう?一緒に暮らして長いからね」


小さく笑って言えば彼女は目を伏せて言う。


「その……さっきはごめんなさい。あなた、本当に私の恋人なのね」


……はて。
彼女は今までにこんなことを言ったことがあっただろうか。
長い生活を振り返れば、こんな言葉をかけられたことがあった気もする。
次の日には一切信じてもらえない状態に戻っていたからあまり期待はしていないけど。


「……どうして急に信じる気になったの?」


それでもはやる気持ちは抑えきれず、思わずそう聞いた。
彼女は「分からないのよ」とかぶりを振る。


「根拠はないの。でも、ご飯を食べていると確かにほっとするのよ。この味を食べ慣れている気がするの」


そう、それは良かった。
そう返すので精いっぱいだった。
さっきまで「期待をしていない」と思っていた気持ちがしゅるしゅるとほどけていく。

だって、ここまで彼女が“分かって”くれたのは初めてだったのだ。
奇跡だと思った。


「ねえ、私のことを教えてくれる?あなたが知っている私のことを」
「え……」


奇跡は、続く。
今までの彼女は現状を教えると、大体は怖がって話もまともにしてくれなかった。
記憶がないのは事実だとしても、僕が彼女にそこまでする理由が分からないと。
そう言って怯えた目を向けるから、僕は必ずと言っていいほど静かに仕事に出ていた。

なのに今日は話を聞いてくれる。
今日が休みで本当によかった。
奇跡だ。


「たとえ一日しか覚えていられないとしても、ここまでしてくれるあなたのことを知らないまま過ごすなんてもったいないわ」


いい?と聞いてくる彼女はまるで、昔のようだ。
やっぱり記憶の有無なんて関係なく、彼女は彼女だと思って――柄にもなく涙が出そうになるのを気合で止める。


「もちろん」


僕は彼女に知る限りのことを話した。
彼女は目が覚めたら、自分が何者なのかすら覚えていない。
これは僕と出かけた先で起きた交通事故の後遺症だ。
今でも僕ではなく彼女が事故に巻き込まれてしまったことに申し訳ない気持ちがあるが、それは割愛しよう。
一種の記憶障害で、彼女は1日分しか記憶をもたせることができない。
ここでいう記憶とは所謂エピソード記憶と呼ばれるもので、彼女は自分が何者なのかということはもちろん、どういう生い立ちなのか、どういう経緯で此処に居るのかも覚えていない。
朝起きたら見知らぬ家にいる。自分が何者かもわからない。
彼女がそうなったのはもうかなり前のことだ。
記憶がなくなる前から恋人だった僕はそうなったあとも彼女と一緒に生活をしている。
それは義務感ではなくて、ただ単純に僕が彼女と一緒にいたいから。

そう告げれば彼女は申し訳なさそうに眉尻を下げた。


「そうだったの。ごめんなさい、あなたにはつらいことをさせているわ」
「気にしないで、僕がやりたくてやっていることなんだ」


それはまぎれもなく本心だった。
事故の時の絶望感も、彼女が事故後初めて目を覚ました時の絶望感も、忘れられない。
何とか病院で見てもらったけれど結果は前述のとおり。
治療法もなく改善の見込みもない状況だった。
彼女の両親は涙を流して僕に彼女と一緒にいてくれてありがとうと言ってくれた。
あなたは自由になっていいのよ、と。

けれど。
僕は彼女といることを選んだのだ。


「ねえ、もっと話してくれる?あなたとの生活を知りたいわ」


もちろん、という言葉が詰まりそうになる。
彼女といることを選んだのは正解だと思えそうな奇跡に、目と喉の奥がカァッと熱くなる。
僕が話す“彼女”のことを、彼女はじっと聞いていた。
時折興味深そうに、時折恥ずかしそうに、時折愛おしそうに。
そのどの表情も僕が恋い焦がれた彼女そのもので、僕は嬉しくてたまらなかった。

昼ご飯を食べた。彼女はどれも好物だと言って喜んでくれた。
昼過ぎには一緒にテレビを見た。くだらないバラエティーの同じところで笑った。
夕方には昔の話をした。彼女が初めて自分から僕の手を握ってくれた。
夜ご飯を食べた。一緒に作った肉じゃがは少ししょっぱくて2人で顔をしかめた。

ずっと彼女に話をした。
今の僕の現状を彼女は心を痛めたような表情で聞くから、「僕は幸せだよ」と言えば彼女は泣いていた。
ごめんね、と。
そんな言葉を言わせてしまってごめんね、と繰り返して彼女が泣くから、僕はやっぱり自分が幸せなんだと言うしかなかった。
だって本当に幸せなんだ。
君がこうして話してくれてる現状だけで、十分すぎるくらい幸せなんだよ。

うん、と返した彼女の目がとろんとしている。
泣いたからだけではないだろう。
明らかに眠たそうだ。


「寝ようか」


そう言えば彼女は一度頷いてから、俯いてぼそぼそと何事かを呟く。
ん?と聞き返すと彼女は「隣で寝てほしいわ」と言った。

本当に――今日は奇跡みたいな日だ。
彼女がこんなにも歩み寄ってくれるなんて、もしかしたら、記憶回復の兆しかもしれない。
いや、たとえ記憶が戻らなくても。
こんな風に言ってくれるなら、彼女と二度目の恋ができるのかもしれなかった。

一も二もなく頷いて彼女のベッドにもぐりこむ。
ベッドの中で、また話をした。
本当にいろんな話をした。
彼女はそのたびに楽しそうに笑ってくれる。
温かい布団に入って、リラックスもしているのだろう、彼女の意識がもうろうとしているのは目に見えて明らかだった。


「寝たくないな……まだあなたと話してたい」
「大丈夫、今日寝てしまっても明日続きを話すから」


彼女はその言葉に少々目を見開いたが、次の瞬間にはふわりと笑った。


「ありがとう。私、きっとあなたが好きよ……また、明日ね」


にこり。
彼女は意識を手放した。
すぅすぅと規則的な寝息が聞こえてくる。
無防備に眠っている彼女は年齢よりも幼く見えた。


「好き、か」


彼女の言葉を口の中で繰り返す。
これがどれだけ残酷な意味合いを持つか、彼女は知らない。
彼女は明日にはその言葉を忘れてしまうのだから。
毎日毎日「初めまして」から始まる彼女と一緒にいることはつらいことだ。
それでも譲れなかった。
つらくても苦しくても、彼女と共に生きたいと願ってしまった。

人はこういう気持ちを不毛というのだろう。
そんなことは分かっているのに、それでも僕はやっぱり何百何千と繰り返した言葉を贈る。
明日の君は僕のことを知らないと知っている。
けれどそれを知って諦めるかどうかは僕の勝手だ。


「僕も好きだよ……また明日」


眠りについた彼女の耳元でもう一度、祈るように言葉を落とす。
静かにベッドから抜け出し、リビングにあるソファーベッドに横になった。
今日の奇跡が続かなかった場合、記憶のない状態で自分の隣に見知らぬ男が眠っていたら怖いだろうという配慮だ。
僕は彼女の恋人だけど、記憶のない彼女に催すほど獣じみてはいないからね。
まぶたをおろして暗い中で考える。

僕は明日も君が好きだ。
明後日も1週間後も1か月後も1年後も好きだ。
ずっと好きでいるから、君の記憶に残らなくてもいい。
君が僕を忘れてもいいんだ。
君が僕を好きだと言ってくれたことは僕が覚えておくから。

何回だって君を好きだと言うし、いつまでだって一緒にいるから。























「ねえ、田中さんのところって……」
「お仕事は普通に行かれてるみたいだけど、やっぱり前みたいにはいかないわよねえ……」
「目の前で婚約者の方が交通事故で亡くなってからぼんやりとして、ねえ……」
「ほんとお気の毒よね……」
「ああでも……朝は話し声が聞こえるみたいよ」
「えぇ?」
「独り言みたいなんだけどね」



「彼女に似せた声で、会話みたいにずっとしゃべり続けてるんですって」


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