ハチャメチャに疲れた土曜の夜に食う飯



 がちゃん。



 開錠音に続いてドアを開ければ慣れた匂いが鼻に届いた。暗い廊下の隅にあるスイッチを押せば明かりがつく。短い廊下を進んで居室にたどり着き、私はため息をついた。





「定時13時半ってなんだよ」





 現在時刻19時25分。



 就職したときに示されていた定時は13時半だったから、帰宅にかかる時間をさっぴいても5時間強の残業になる。これで残業代が出ないなんてどうかしてるぜ、と少し前にはやった芸人の口調で呟きながら私はかばんを床に置いた。どす、というかばんが立てるにしてはいささか重い音がする。そのまま流れるように上着を脱ぎ、きつめに締めていたベルトを取ってズボンをストッキングごと脱ぎ、ブラウスの中でブラのホックをはずして、腕のほうからすっぽぬいてフローリングに落とす。ついでにブラウスもぽとり。



 脱いだものを洗濯物入れるかごに入れないとなあ、と思うもののめんどくささが先にたった。今すぐ洗濯籠に入れないと死ぬということでもない。キャミソールとパンツというお外に出たら一発アウトな格好だが、まあ一息ついてからでもいいだろうと頭の中で自分の言動を正当化する。



 私が悪いのではない。こんな時間まで働かせる勤め先が悪いのだ。責任転嫁はやりすぎると人として腐っていくが、時々しないと息が詰まってしまうのである。云々。

冷蔵庫を開けてとりあえずビール……と缶に手を伸ばしかけて止まる。そういえば、ビール缶の隣に置いておいたんだっけ。



 ぱちもんのジップロックみたいな密閉袋に入れたそれはこい茶色に染まっている。まだ水気の残るそれを触ればむにむにとなんともいえない感覚が指先に届いた。





「ちゃんと自炊してる?」





 そう聞いたのはツイッターのフォロワーだったリエコだ。趣味が同じということで知り合い、意気投合し、今となってはツイッターどころかラインや実際のランチまで一緒にいく間柄である。当然私の仕事についても知っており、ついこの間食事をしたときには「あんたやつれたねえ」のあとにこの言葉をもらった。



 ちゃんと、といわれると悩む。自炊、といわれるともっと悩む。



 元来料理をするのは好きなほうだったから、別に料理をすること自体がいやなわけではないのだ。ただ、どうしても疲れて帰ってきてから下ごしらえをして火を入れて……という工程を踏むのは非常につらい。



 それを伝えたところ、リエコはからからと笑ったあとで「じゃあ、作業工程の少ないやつを教えてあげよう」と言い、これを教えてくれたのだ。



 パックのご飯をレンジで温め、ぺりぺりとフィルムを外しきる。よくないとは分かっているが、皿を出すのすら面倒くさい。さすがに手に持った密閉袋からちまちま中身を取り出して食べるのは面倒くさかったから、それだけは先に箸を使って取り出し、ご飯の上に適当に盛った。



 漬け丼。メニュー名を端的に伝えるならそれだろう。既にカット済みの鮪の刺身を少し濃いめのめんつゆで漬けただけのそれは、生とも加熱済みともつかない艶めかしい色をしている。箸で挟んだだけでも分かるその独特の感触は、一人暮らしを始めてから……いや、実家にいたころからなかなか触れる機会がなかった。





「うわぉ……」





 慣れない感覚に思わず声が漏れる。くんくんと匂いをかいでみれば思っていたよりも生臭さはない。それよりはめんつゆの匂いが強く、それに反応するようにおなかが鳴った。昼ご飯は食べる時間がほとんどなくて、昼前におにぎりを無理やり口の中に放り込んだだけだったから、実に8時間ぶりほどの食事になる。



 ビールの代わりにペットボトルのお茶を取り出し、どんぶりに盛られてすらいない漬け丼を机に置いた。見た目はよくないが、まあいいだろう。





「いただきます」





 久しく口にしていなかった挨拶をし、漬け丼を口に運ぶ。もぐ、と一度咀嚼した時、私は自分の動きが完全に止まったのが分かった。





「えっ……え?」





 人間は自分で理解できない現象が起きた時困惑することしかできないらしい。



 いや、これ、おいしすぎる。ただ漬けただけなのに味がちゃんと染みているからか恐ろしいほどご飯にあう。口に運ぶスピードも咀嚼するスピードも徐々に上がっていく。気づけばチンするご飯は早々に消え失せ、私は2パック目に手を出していた。滅多に家で白米を食べることがないから、チンする時間がこんなにもどかしいとは知らなかった。



 結局私はご飯2パックと刺身1パック分をぺろりと平らげてしまった。満腹感と少しの罪悪感、それを越える莫大な多幸感のなか、私はスマホを手に取りSNSアプリを開く。





『リエコ、あれすごい。めちゃしあわせ。他のもあったら教えて』





 日本語がほとんど崩壊したようなそのメッセージの返事としていろいろなレシピが送られてくるのは、それからほんの十数分後の話である。







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