蠱惑のリップ



「校則違反です」


 鋭く貫くような声が耳朶を叩く。鬱陶しそうな顔で振り向いた少女は声の主を認めると、形よく整えられた眉根を寄せた。


「なァに、イインチョー。あたし忙しいんだけど」

「委員長じゃないです、クラス風紀委員の松本です。桑原さん、本校ではそのメイクは校則違反ですよ。担当の荻原先生からメイク落としを預かっていますから、女子トイレで落としましょう」


 パーツを見れば整った見た目であるが、全体的な印象としては大人しそうというか、地味に見える。そんな生真面目な印象を与えるきっちりとした服装の、松本と名乗った少女はその手に拭いて落とすタイプのメイク落としを持っている。それを見て桑原と呼ばれた派手な印象の少女は露骨に嫌そうな顔をした。ダルぅ、と間延びした声で、しかし幾分険のある声で呟く。

 アンナぁ、と桑原を呼ぶきらびやかな声がした。きゃあきゃあと姦しく、しかし楽しげに走り寄ってくる同級生たちを見ても松本は顔色一つ変えずに「校則違反です、桑原さん」と繰り返した。


「えぇ〜、アンナなにしたん?」

「なんにもしてないって! イインチョがさ〜、メイク校則違反だからとか急に言ってて〜」

「急にじゃないです、風紀強化週間のことは先週末から終礼時に毎日連絡しています。桑原さんが終礼の時いつもスマホを見ているからですよ」


 無表情のまま松本が言い放った言葉に反論しようとしたが、友人たちが「そういえばそんな話してたね〜」と相槌を打ったので口をつぐんだ。


「てか、だとしたらごめんねまつもっちゃん! あーしら馬鹿だからいつも通りフルメイクしてきちゃった〜」


 友人の一人がそう言ったのを皮切りに、桑原以外の全員が松本からメイク落としを受け取り、女子トイレのほうに走っていく。まつもっちゃん? なぜ友人たちが松本をそんなに親しげに呼んでいるのかと呆気に取られてその場に立ち尽くす桑原に、松本はやはり顔色一つ変えずに言った。


「誤解をさせていたら申し訳ないんですが、フルメイクが校則違反なだけで、私も別に眉毛なしのままで出歩けと言っているわけじゃないです。みなさんはそれをご存じのようですよ」

「いや、ちゃんとそこまで言えし!」


 逆切れだと分かりながら桑原は松本に吠える。なんだなんだと遠巻きにその様子を見る級友たちの視線を浴びながら、しかし松本はしれっとした様子を崩さない。感覚や感情がないのではないかと疑ってしまうような無表情に桑原は一瞬怯む。

 とん、と松本が一歩桑原に近づく。無理やり化粧を落とされるのではないかと身構えた桑原の正面に立った松本は、ほとんど聞こえるか聞こえないかというくらいの声で呟いた。


「……お化粧するなら、派手にするだけじゃなくて自分をいかに“らしく”見せるかを考えてにしなさいね」


 間近に迫った松本から、嗅いだことのあるような匂いがする。そうだ、これは自分が使っているメイク道具のような。


「え」


 そうだ、よく見てみれば彼女の肌は血色よく美しく見えるが、天然のものではない。目元のふっさりとした睫毛も、自前かと思えばそうではない。唇など、たいそう自然な、しかし美しい色合いのつややかさだ。


「えっ」

「はい、メイク落としです。先生方だって度を越さなければとやかくおっしゃらないんですから、きちんと守るべきラインは守ってください」


 有無を言わせぬ圧で松本は桑原にメイク落としを握らせると、小さく、気づくかどうかも怪しいほど僅かに微笑んだ。


「お化粧は楽しいものですし、桑原さんは御顔立ちもいいですから。きっとナチュラルメイクも映えるでしょうね」


 世辞だと一蹴したいのに、その微笑みの美しさに思考が止まる。阿呆のように母音を口にしている間に松本は次の相手に声をかけに行ってしまった。背後からがやがやと友人たちが帰ってきた声がしてようやく桑原は我に返った。


「いや、なんだあの美少女」


 どこどこと心臓が和太鼓のようにやかましく鳴っている。首から上がやけに熱くなっているのも感じる。

 これがまさか自分の初恋になるとは、今の桑原には知るよしもない。




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