クソッタレの神様へ
「シセロ」
咎める声色でウーゴは彼女の名前を呼んだ。
無表情でぽろぽろと涙を流しながら呼ばれた当人は振り返る。
人形のような美しすぎる顔だ、とウーゴは思う。
悲しいならもっと顔を歪めればいいのに。離れたくないと喚けばよかったのに。
女であることとマフィアであることがこんなにも矛盾すると知っていたのだから、いっそ、二人で逃げてしまえばよかったのに。
「シセロ」
どこか遠くを見ていた彼女の瞳が自分を捉える。
「うーご」
呆けたような、なんの感情もないただの音が自分の名と同じ音階をなぞる。
こんな彼女を見たかったわけではない。
隣で支えると決めたあの日から、彼女には幸せであってほしかったのに。
「神父サマたちを乗せた船は、先刻無事に本土のほうについたそうだよ」
「そうか」
「神父サマも意識が戻ってお元気だそうだ」
「そうか」
「シセロ、本当にいいんだね?」
ゆらゆら、ぶれていた目が一瞬、据わる。
「いい」
そう、はっきりと言い切って。
再びシセロの視線は虚空へ混じってゆく。
「いいんだ、僕は、戦いに行くから」
けれど、言葉だけはどこまでもはっきりと雄弁に戦闘の意志を語る。
「カポデチーナ、俺は、俺は反対っす!カポデチーナは、神父さんと一緒にいれば幸せになれるって、分かってんのに……!」
隣に控えていたエルモがつらそうな顔をして吠える。
彼女はそんなエルモにもわずかに微笑みを返し、小さく首を横に振った。
そうして、ゆっくりとレッグホルスターから2丁拳銃を取り出す。
コルト・シングルアクション・アーミーと、22口径ショートオートマチック。
彼女の真の相棒。
「いいんだ――僕はこれでいいんだよ」
銃を自らの額に押し当て、まるで祈りを捧げるように瞳を閉じる。
奇しくもそれは彼女が焦がれたかの神父の祈りの姿に酷似していた。
「あの人のいる本土まで、連合軍には踏み込ませない」
ゆっくりとそう呟く。
「絶対に、南部で食い止める」
ゆっくりと目を開く。
「そのためなら――あの人が生きて幸せでいてくれるなら、僕の命なんて安いものだ」
なあ、クソッタレの神様。
あの人の大好きな、大いなる主とやら。
あんたのことが好きで好きでたまらない男を守ってやるんだ、ちょっとくらい味方してくれよ。
あの人が戦禍を被るなんて、あんたからしたってとんでもねえことだろうからさ。
「彼を守るための力を与え給え――アーメン」
そうして、第二次世界大戦、イタリア戦線は開始された。
圧倒的な兵力差に、戦力差に、ほぼ為す術のないまま。
「……!……!!」
遠く、怒号のような声が聞こえる。
訛りが強くて聞き取りづらいが、おそらくイタリアに加担しているドイツ兵のものだろう。
「戦線維持が不可能」「本土への侵攻が」「司令官に指示を仰げ」――そう言った類の文言が飛び交っているのは容易に想像ができた。
顔を手で拭う。
べっとりと血を吸って重くなった泥が白く美しい肌を汚す。
「ウーゴ、よくここまでついてきたな」
「……は、俺はお前の右腕だからね。お前がなにかしでかさないか見ておかなきゃいけないだろ」
隣を見やれば半死半生の体でそれでも笑顔を浮かべているウーゴがいる。
全身やけどや切り傷、銃創まみれで、それでも笑っている。
ガタイの割に文官気質の彼が、根っからの武闘派であるシセロについてくるのは至難の業だっただろう。
その証拠にシセロの傷と彼の傷の量はまったく違った。
残り体力ももちろん、ウーゴのほうがよほど余裕のない状態だ。
「ウーゴ」
「…ん?」
「無茶ばっかりする僕に、いつもついてきてくれてありがとうな」
はは、なんだよ今更。
ウーゴは自分の笑い声が引き攣っているのを感じる。
きっと顔も引き攣っているだろう、いつものポーカーフェイスは作れない。
だって、目の前のシセロは笑っている。
いつかと同じように、綺麗に、ただただ綺麗に笑っている。
「シセロ……」
「外、声が止んだな。多分、さっきでかい爆発音がしたからあいつらも死んだんだと思う」
すい、とシセロの視線がウーゴの後ろに向かう。
つられて振り向けば、満身創痍のヴィノと、彼を支えるエルモの姿があった。
「エルモ、ご苦労だったな。親父もくたばりそこなったようで何よりだ」
「カポデチーナ!御無事で!」
「シセロ、無事だったか!ウーゴも!」
嬉しそうに声を上げるエルモとヴィノはきっと気づいていない。
ウーゴはこの場にいる人間のうち、自分だけが気づいているのだと認識する。
シセロがそれを分かったうえで、この2人と落ち合わせたのだということも同時に理解する。
「ウーゴ、エルモ、ヴィノ。ここから先に洞窟がひとつある。おそらくだが、島の反対側に通じているはずだ。カポから聞いたことがあるからほぼ間違いはない。そこから脱出しよう」
「まだそんなルートがあったんすね!さすがカポデチーナ!」
「まあな。……ああそうだエルモ、お前まだ力に余力あるか?ウーゴの野郎、ドジって血がたりてないらしい。悪いが支えてやってくれ」
「お安い御用っすよ!」
「ちが…エルモ、まて」
感極まっているエルモに、ウーゴの僅かな否定は届かない。
たくましく成長した腕に抱きすくめられ、血の足りないウーゴの体は簡単にエルモに支えられてしまう。
その様子を見てシセロは。
「……うん、いけそうだな」
満足そうに微笑んだ。
「さあ急ごう、向こうで砲撃の音がしたから静かにな。振り向くんじゃないぞ」
子どもに言い聞かせるようにシセロはそう言う。
焦るウーゴにかまうことなくエルモとヴィノの足はずんずんと示された洞窟の方面へ進んでいく。
「まって、エルモ、シセロが」
「しっ、ウーゴさん、声出しちゃダメっすよ」
「エルモ……!」
ウーゴがなんとか半身をひねって後ろを見たとき、光を浴びて煌めく長い白銀はそこにもういなかった。
戻れ、戻ってくれ。
あの子は1人で死ぬつもりなんだ、頼む、戻って。
そう懇願しようとしてエルモの顔を見上げたウーゴは唖然とする。
「エルモ……」
彼は唇を強く噛み、血を流しながら必死に涙を流すまいと耐えていた。
「だめっす、ウーゴさん。これはカポデチーナ直々のお願いなんす」
――エルモ、お前がもしこの戦争に参加するなら、お前は絶対生きて帰れ。
――それから、僕の世界で二番目と三番目に大事なものを連れて帰ってくれ。
「ウーゴさんとカポデチーナ・ヴィノを生きて帰せと、俺はカポデチーナから仰せつかってます!こればかりは、ウーゴさんに怒られても上官命令で無効っす!」
力が抜ける。
ああ、シセロ、お前。
神父サマを逃がすだけじゃ飽き足らず、こんなところまで布石を。
「シセロ……!」
振り向いて声を発しても、もう届かない。
銀狼と謳われた彼女は、15年右腕として連れ添ったウーゴですらもう手の届かない場所へ行ってしまったのだから。
「Vaffanculo!(クソッタレがぁ!)」
叫び、銃を構えて撃つ。
慣れ親しんだ愛銃は確かな手ごたえを届けるものの、多勢に無勢。
じりじりと追いやられながらシセロは笑っていた。
彼女の本命である、先の3名が逃げた洞窟からは完全に目がそれている。
あとあと気づかれても、きっとあの3人が抜け切った後だろう。
「あ」
ずざあ、と派手な音を立てて転ぶ。
長時間の緊張と積み重なった傷が確実にシセロの体力を奪っていた。
転んだ状態の自分を、敵兵が取り囲んでいるのが分かる。
兵士たちは「女だ」というようなことを口々に言い、そうして、シセロの上げた顔を見て下卑た笑みを浮かべた。
上玉だ、とでも言いたいのだろう、男たちは目くばせをして何事かを口走っている。
全部で30名前後か、普通にしていれば逃げることはおろか敵対することなどできない。
が、シセロは最後の光明を見つけた。
ずるずると後退し、木の幹に体をもたれかけ上半身を起こす。
にやにやと笑いながら近づいてくる男たち、そのうちの数名に目をやって。
「お前らは、僕を燃やす薪の代わりだな」
カチリ。
軽いボタン音と共にシセロの手に小さな小さな銃。
スリーブガン。レミントン・デリンジャー。
威力は低いためほとんど使用されない銃だが、シセロは別にこれで人を撃つわけではない。
ただ――彼女の目線は男の腰元、膨らんだ「手榴弾」。
「お前らが、地獄への伴をしてくれや!」
瞬間、閃光が炸裂する。
轟、と膨らんだ光が一瞬で熱に変わり、炎が男たちを包む。
絶叫とも咆哮ともつかない音を立てながら男たちは諸悪の根源たるシセロに掴みかかってきた。
顔が焼かれる。足が、腹が、焼かれていく。
その中でシセロはただ、笑っていた。
諦めたように、それでいてどこかほっとしたように笑っていた。
ああ、ようやく終わるんだなあ、と思った。
幼い頃親に捨てられて、アドルフォに拾われた。たくさんの人に愛されて、19の年にあの人に出会った。
長く苦しい片恋だった。
聡明な彼が気づいているのに気付かないふりをするから、伝えたら困るのだろうと思い、前面に押し出すようなことはしなかった。
だから、15年、隣に居られた。
自分がこの30人を連れて逝くことで、少しでもあの人の生存確率が高まるなら悔いはない。
戦争が終わったら、きっとあの人はまたどこかの教会でいつも通りの生活を送る。
もしかしたら生臭神父たる彼のことだ、結婚なんかもするかもしれない。
そんな物好きがいるかどうかはさておき、それでも、彼が幸せでいてくれるなら、それで――それで。
「それで……よく………ない……」
いいわけが、なかった。
15年。19の年からずっと、ずっとあの人だけを見てきた。
自分の生き方と相反するこの感情を憎らしく思ったこともあったけれど、でも、どうしたって捨てることなんてできなかった。
あの人の隣で生きていきたいと、15年間、ただそれだけを願ってきた。
それに気付いた瞬間、「死にたくない」という願いが唐突に爆発する。
死にたくない、生きていたい、生きて、生きて、あの人の所へ帰りたい。
あの人の隣に、並び立っていたい。
それは長らく感じていなかった生への渇望だった。
シセロ・ガッティというひとりの女の、消しきれなかった情だった。
肉の焼ける匂いが充満している。
生きたいと思った瞬間、麻痺していた体の感覚が戻ってくる。
あまりの痛みに絶叫が口からこぼれる。
それでも。
それでも、まだ、僕は、生きている!
痛みが生の実感になる。
痛みがおぼろげになる記憶を呼び覚ます。
そうだ、だってあの時あの人は。
「いかないで」って、言ってくれた。
僕が離れることを、少しでも嫌がってくれた。
なら――ならば。
「あの言葉、の……真意を聞くまでは……」
絶対に、死んでたまるものか。
焼け焦げたまま恨めしそうに自分を見る男が、シセロの左脚を絶対に離すまいと燃え上がる身体で抱き着いてくる。
痛みに呻き、それでもシセロは最後の最後、隠し持っていた本当の「最終手段」を手に取る。
「地獄へは――これでもくれてやるよ、糞童貞ども!」
炭化し感覚のなくなった左脚の太腿から下を、大ぶりなナイフで断ち切る。
痛み、頭がしびれ、声にならない咆哮をあげながらシセロは炎の檻から脱出する。
ただただ、頭の中は一つだけ。
――本当に、貴方は無茶をするんですから。
帰ったら――最初怒って、でもちょっとしてから彼はそう言って笑ってくれるだろうか。
仮にも女性なんですから、なんて嫌事の1つでもくれるかしら。
そうして、いつものように「お茶でも飲みましょうか」って、言って、くれるだろうか。
「ラファエレ……」
倒れこみ、急速に冷えていく体で彼の名を呼ぶ。
どうか、どうか、ラファエレ。
「かえ……から………ぜった、い……」
意識が黒く塗りつぶされていく。
体が冷えて、言うことをきかない。
残った思考の片隅で、シセロはいるのかいないのか分からない神に願う。
クソッタレの神様へ
結局、死ぬ間際に炎の中で思うこともあの人の事ばかりなので御座います。
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