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愛のベクトル


どういうことですか、という言葉の端々に滲む怒りを一身に受けて、シセロは笑う。

「耄碌するには早いんじゃねぇの?まだ40だろ、オッサン」
「揶揄うものじゃありません」

ラファエレは眉も眦も吊り上げ、語気を強める。
対するシセロはへらへらと笑い、どこ吹く風。
その態度がまた、ラファエレをイラつかせる。

「教会を離れろとは、どういうことですか」
「そのまんまだよ。じき戦争が始まる。ここが戦場になることは間違いねぇから、とっとと逃げてくれって言ってんだ」
「違う、そこではない!シセロさん、あなた「自分が何を言っているか」分かっているんですか!?」
「わかってんだけどなあ」

へらり。

「あなた、ここにとどまるってさっき言ったじゃないですか……」

ラファエレは目の前の女を凝視する。
19歳のころから彼女を知っている。
マフィアなのにどこかどんくさくて、家族が大好きで、苦いコーヒーが苦手で、女扱いされるのが苦手で、いつも快活に笑っている、そんな女だった。
こんな風に、仮面をつけたように笑う人ではなかったはずだ。

「あなたは……!」

珍しいことに、今ラファエレの中にあるのは「シセロ・ガッティへの怒り」だった。
他人に興味のないラファエレが、シセロのこの行動には怒りを覚えていた。
しかし、なぜこんな気持ちがあるのか、そんなことを考えている余裕はない。
彼女が示した脱出の刻限はもうわずか30分後に迫っている。

「わかっていて、こんな……ぎりぎりに」
「だってオッサン、時間あったら僕の事だまくらかすじゃないか」

へらへら、へらり。
風に舞う蝶のようにふわふわと、彼女の印象が変わる。
ラファエレの知っているはずの「シセロ」の面影が、思い出せない。

「まあ、さ。腹くくって荷物まとめてくれや。つっても、オッサンの荷物ほとんどなかったから僕がちまちままとめておいたんだけどさ」
「シセロさん……!」
「おお怖い、どんくさいシセロさんのわりには用意周到だって褒めてくれていいんだぞ?」

自分の足元に軽く放り投げられたボストンバッグにまた血がのぼる。
どこまで計算していた?どこまで誘導されていた?
いったい彼女は、いつからこのことを計画していた?

いつから彼女は、自分を逃がそうと考えていた?

「……私は神父ですが、同時に神に背く者でもあります。戦争になり、戦うこともやぶさかではない」
「そういうだろうと思った、だが、駄目だ」
「なぜ!」

声を荒げるラファエレに、シセロが向き直る。
一陣の風が吹き、腰元まで伸びたシセロの白銀の髪がふわりと舞い上がる。

「僕がカポデチーナである限り、一般人は絶対に退避させるからだ」

息をのむ。
凛とした声色は、自分を見据える真紅の瞳は、彼女の背後に広がった白銀の髪は、あまりにも神々しかった。
マフィアの幹部としてだけではない、強い覚悟を秘めた人間の顔。
ずっと揺らがなかった彼女の仮面の下をようやく仰ぎ見る。

「私が……ファミリーではないから」
「ああ、そうだ。オッサン、あんたはアドルフォの人間じゃない。アドルフォの人間との交流があるだけの、ただの一般人だ。一般人は、僕の守るべき対象だ」
「あなたの誘いを断り続けた意趣返しですか?」

皮肉に対して、シセロは一瞬きょとんとする。
けれど、その意味を理解したのだろう。

「いいや」

はっきりと否定した。

「なあ、オッサン。僕はイタリアが好きなんだ」

そして、唐突に語り出す。
異を唱えようとしたラファエレを目で制して、滔々と語る。

「カポも、親父も、兄貴たちや僕の部下だって同じ気持ちだろう、だから国の為に戦うんだ。……でも、僕がイタリアを好きな理由はきっと彼らと違う」

この瞬間、ラファエレは「自らの失態」を悟った。

15年間。

ラファエレがシセロの片思いを殺し続けた期間だ。
自らに向けられる好意に気付かないふりをして、彼女を傷つけつづけた期間だ。
自分には神がいるし、彼女にはもっとふさわしい男がいる。
そう思って振舞い続けたことが、今、取り返しのつかない失態となって跳ね返ってきた。

「誘いを断り続けた意趣返し」なんて、そんな可愛らしいものではなかった。

「僕は……ううん、私は、貴方がいるからこの国が愛おしかった。国の為に戦うことが貴方を守ることになるのなら、それは私が貴方に示せる最後の愛だ」

恋を諦めた女性の緩やかな自殺。
それが、ラファエレの平穏な15年間のための代償だった。

「あなた……死ぬ気なんですか……」

絞り出した声は震えている。
シセロは何も言わない。
にこやかに、憑き物が落ちたように、柔らかに笑っている。

「ラファエレ」

穏やかな声で、彼女がラファエレの名を呼ぶ。
15年間、「オッサン」と、「あんた」とぞんざいに呼ばれてきた。
「ラファエレという名前があります」と叱ったこともあった。
それでも彼女は懲りず、名前を頑なに呼ばなかった。
なのに、今。
彼女はラファエレの名を呼んだ。

「ラファエレ」

もう一度、彼女は年齢を重ねて幾分か落ち着いた、けれど美しい声で彼の名を呼ぶ。
まるで、もう二度と呼ぶことの叶わない名を味わうように、一音一音を噛みしめるように呼ぶ。

「なあ、聞いてくれるよな」
「……いやで、」

す、という音は声にならなかった。
僅か一瞬、それでも確かにラファエレの唇にシセロの唇が触れる。
ただ押し付けただけの子どものような口づけに似合わない、大人びたリップの香りが口腔を抜けていく。

「へへ」

すぐさま身を離したシセロは、泣いていた。
少女のように頬を染めて、花が綻ぶような笑みを浮かべて、ラファエレを愛おしそうに見つめながら泣いていた。
ほろほろと彼女のつややかな頬を水滴が転げ落ちていく。

「ごめんな、オッサン。最後まで言うこと聞かねえやつで」

ウーゴ、エルモ。
静かに呼ばれた名前に振り返るより早く、後頭部に衝撃が走る。
ぐらりと傾ぐ体がガタイのいい人間に抱きかかえられる感覚。
遠のく意識の端で、シセロが自分から遠ざかっていくのが見える。
違う、運ばれている。
「気絶させて運びだそうだなんて、なんてあくどいことを」。そう言って笑ってやりたいのに、「なにを泣いているんですか」と涙をぬぐってやりたいのに、声も手も届かない。

「いかないで……」

ようやく口にした、たったの五音。
その言葉にシセロは今までで一番痛そうな顔をした。

「     」

彼女の口が何か言葉を示す。
しかし、薄れてぼやけていく視覚と聴覚ではとらえきれない。

嗚呼、あの子が泣いているから、拭うか、抱きしめてあげなければいけないのに。



「神父様!」

目を覚ました。
途切れた記憶を思い出し、ラファエレは勢いよく跳ね起きる。
その姿を見た町娘が声をかけてきた。
たしか、クラリーチェという名前だったか。よく礼拝に来ていた。

「クラリーチェさん、ここは」
「船の中ですわ」
「船……」
「シセロ様が、「逃げよ」と、「必ず生き延びて戻れ」と、船を出してくださったのですわ」

その言葉に全身の力が抜ける。
起こした上半身が再び沈んだ。

「やられ……ましたね」
「……シセロ様は神父様に謝っておいででしたわ」
「下手をすれば誘拐ですからね」

クラリーチェは二言三言ラファエレの体調について質問をすると、「そこに神父様の荷物がありますから」と言い残して部屋を後にした。
まとめられた荷物。小さなボストンバックひとつ分のそれを無造作にベッドの上にばらまく。
着替えの類であったり、十字架であったり、なにかと使っていたマグカップまで入っていた。
どれも見慣れた品ばかり、その中に一つだけ見慣れぬもの。

紅の華を添えた、小さな封筒。

震える手で封を切り、便箋を取り出す。
お世辞にもきれいとは言えない文字が並ぶそれが、シセロの書いたものだと分からないわけもない。
こうなることを見越して――手紙を。



ラファエレへ
あんたと出会えて嬉しかった
もし今度あんたと出会えることがあるなら、同性がいい
同性ならきっといい友達になれると思うんだ

愛してしまって、ごめんな
どうか生きて、幸せになって
シセロ



飾りっ気のない短い手紙。
これに、どれだけの思いを込めたのだろう。
聞かなくても分かるようだった。

「おぉ……」

便箋を抱きしめ、ベッドにうずくまる。
呻き声が喉の奥から漏れる。

「おお主よ、これが私への罰なのですか。今までの私の愚かさへの天罰なのですか」

彼女を騙し続けた15年の代償があの別れなら、神に背いた40年の代償はきっと今ラファエレの中にあるこの心だ。

彼女と――シセロ・ガッティと共にいたかったと感じて張り裂けそうな、この心だ。

「主よ、おお、大いなる主よ、お許しください、お許しください!」

天に向かって祈る。便箋を握りしめたまま、絶叫するように祈る。
お許しください、お許しください。
今までの非礼を詫びます、愚かであった自らも正しましょう。
ですから、ですからどうか。

「あの子を、私の花を返してください」

自分の隣に在りたいと願い、自分の足で無残に踏みにじられたあの凛とした花を。
奪わないでください。
勝手な願いだと分かりきっているのに声が止まらなかった。
死なせないで、もう一度会わせてください。
だって、私は。

「あの子になんの言葉も返していない……!」

くしゃり、手の中の便箋が音を立てる。
彼女の香りが周囲に広がって、なおのこと悲しかった。

「シセロさん……!」

なんだよ。
柔らかに笑む彼女を見ることは、きっともうない。
その機会はほかならぬ自分自身が永遠に奪ってしまったのだから。





愛のベクトル





「貴方を守れるのならそれで良いの」と笑うは女の情で御座います。










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