§2
「天音ちゃん?」
はっと意識が返ってくる。
顔を上げれば心配そうな顔をしたゆいつんがあたしを見下ろしていた。
その隣に座っているかげちゃんも不機嫌そうな顔をしながらちらちらと視線だけは投げて寄越すから、気にしてくれてはいるのだろう。
慌てて顔の前でひらひらと手を振ってなんでもないよ、という意を示す。
「体調が悪い……とかではないんだよね」
「うんうん、大丈夫!全然平気だよぉ」
ホント?って言いながらゆいつんがあたしの額に手を当ててくれる。
あたしと違ってゆいつんの手はひんやりしているから、熱はなくてもなんとなく気持ちがいい。
うーん熱はなさそうだねって首をかしげるゆいつんの後ろでかげちゃんが「考えごとか?」と聞いてくる。
考えごと、っていうほどたいそうなものではないと思う。
っていうか、みんながもうとっくに考え終わっていることを未だに考えてるって、あたしちょっと容量悪すぎないかな。
あたしの進路の話が、周りのみんなとちょっと毛色が違うんだってことはよく分かっている。
みんなは大体、大学進学を考えてて、その中で大学をどこにしようかなあとか、学部はどうしようかなあとか、そんな悩み方をしている。
もしくは就職で、どんな職種にしようかな、とかどこの企業がいいのかな、とか。
ただ、あたしはもっともっと大元から掴めていない。
写真が学べる大学に行こうか、写真家のもとでアシスタントになろうか、なんて。
周りのみんながとっくの昔に考えて決めた内容を、未だに悩んでこねくり回している。
ああ、情けないなあ。
そんな風に思って、けれどそんなことをおくびにも出さないようにしていつも通り笑う。
「うん!おなかすいたから、今日のお弁当について考えてた!」
「はぁ〜?しょーもな」
やれやれと言いたげに肩をすくめるかげちゃんに、えへへと声を出して笑う。
心配してくれた2人には悪いけど、これはさすがに2人には言えない。
2人が相談した内容を言いふらすかも?とか信用してないってわけじゃなくて、単純に、かっこ悪いから。
あたしが、そんなこともできない自分を、許せないから。
ただそれだけのことだから、あたしは何にもないよって顔をして笑ってみせる。
「安堵さん……?」
ここちゃんがいつもは出さないような不審そうな声を出す。
そちらに顔をむければやっぱり、ケゲンそーな顔をした彼女の顔があった。
「なぁに、ここちゃん」
いつも通り、いつも通り。
安堵天音が出しそうな声を出す。
なのにここちゃんはなんだか痛そうな顔をして、あたしから目を逸らした。
「ここちゃん?」
「ううん、なんでも、ない。きっと私の気のせいだから」
顔を上げたここちゃんがちょっとだけ笑う。
その笑顔に違和感があったけど、あたしはそれを感じなかったことにした。
ぱちぱちとまばたきをしてから彼女を見れば、その違和感はやっぱりない。
大丈夫なはずだ。
ある程度の付き合いがある2人が何も言わないのだから。
自分の思考回路に矛盾があることなんて疑いもせず、あたしは笑う。
あたしが本気を出して隠したものを2人が気づける可能性のほうが低いのに、その2人が何も言わないことを自分に問題がないことの証明としようとする。
これがどれだけぶっ飛んだ思考回路だったか、普通に考えればわかりそうなものなのに、あたしにはとんとわからなかった。
「あれ、安堵ここにいたのか」
「田中?」
「山田先生が探してたぞ。進路のことで話したいことがあるから、昼休みに進路指導室来いってさ」
「……げぇ」
喉の奥から自分の気持ちを代弁するような、低くて潰れた汚い声が漏れ出る。
断っておくけど、別にあたしは山ちゃんが嫌いなわけではない。
むしろ山ちゃんは大好き。
ぶっきらぼうに見えて優しいし、雑に扱ってくるわりにはこっちのことを考えて一番いい方法を考えてくれるし、何よりあたしたちのことを好きでいてくれるんだろうなって思う。
でもやっぱり、この案件に関してはあまりにも面倒で、なおかつキツイ。
自分に負い目があるからなおのことである。
「天音ちゃん、まさかと思うけど進路希望調査表……」
「だ、出したよ!?ちゃんとパンフレット貰ったし、目を通したし、その上で進路希望調査表書いたし……」
「へえ?なのに山田先生から呼び出し入るんだ?お前調査票になんかしたんじゃねーの、コーヒーこぼしたとか」
「そんなことないよ!コーヒー飲めないもん!」
そこじゃねえよってかげちゃんが突っ込んで、ゆいつんがそれに笑ってくれる。
伝言をしてくれた田中もそのやり取りを聞いて、相変わらずだなあ、なんて言って笑っている。
その中で、たった1人。
ここちゃんだけがやっぱり、困ったような顔をしていた。
「しつれーすると申し訳ないので帰りまーす」
「早く入れ」
「うっす」
軽口をたたきながら進路指導室の扉を開ける。
いつもならだるそうに返事をくれる山ちゃんは珍しく怒った顔をしていた。
やばいなあ、と思いながらへらり、笑みを形作る。
「安堵、俺はお前に希望調査表を出せって言ったんだがな」
「出しましたよぉ」
「これのどこが希望なのか、言ってもらおうか」
山ちゃんの手の中にある進路希望調査はたしかにあたしが提出したもので。
一二三と振ってある欄の中はすべて「願書出願までに決めます」という文字で埋まっている。
「まだ決まってないのか」
「決まってないよ」
「一応聞くが、理由は」
「うーん……決めかねてるからかなあ」
口元に指をあてて考える仕草をする。
山ちゃんはあたしにも聞こえるように大きくため息をついて、あのなあ、と話し始めた。
「親御さんはこのこと知ってんのか」
「ううん、知らない」
「進学か就職か、親御さんに相談してもいい案件だろうが」
「……しない」
声が固くなったのを自分でも感じる。
山ちゃんのかたっぽの眉毛がくいっと上がって、「何言ってんだこいつ」という表情を作る。
そんなに不思議なことかなって思ったけど、オトナの山ちゃんがそう思うからきっとあたしの思考回路は不思議なんだろう。
「相談しないってお前が言いきる理由は?」
ほら、その証拠に聞いてくる。
「……それは」
人に話したくないことなのですが、山田先生に報告しなければいけないでしょうか。
意識して過剰に敬語を使う。
普段雑に話しているから、きっと山ちゃんはあたしの意図を汲んでくれるだろう。
「今相談しておかないと、お前もそうだが、困るのは親御さんだぞ」
「どうでしょう?母は以前私の好きにしろと言っていたので」
にっこり笑んで返す。
睨みつけるような視線を感じながら、それに対して微笑みだけを向けるのはあたしの昔取ったキネヅカってやつだ。
相手の激しい感情に飲まれてこちらが感情を出せば、相手が譲歩したからとこちらが譲歩しようとすれば、必ずそこに付け入られるということをあたしはよくよく知っていた。
どれくらいそうしていただろう、昼休みの終了5分前を告げるチャイムが進路指導室の中に響く。
山ちゃんはちらりと時計を見やり、重々しくため息を落とした。
「今までならお前を授業だろうがここに縛り付けておくところだが、曲がりにも高校3年に授業をさぼらせるってのはな……」
「……」
「分かった、とりあえず昼の部はここまでだ。放課後ある程度まとまったものを持ってくるか、相談に来い」
「……」
「安堵」
名前を呼ばれるが目線だけ向けて返事はしない。
親に相談するという話は許容できないし、それ以上に今日の放課後を使ったところであたしの考えがまとまるとも思えない。
問題を先送りにしているだけだとは分かっているけれど、それでも学校に残って山ちゃんとにらめっこしているだけで解決するとも思えなかった。
「じゃ、授業始まるんで失礼しまぁす」
「安堵!!」
怒号めいたトーンで山ちゃんがあたしを呼んだけど、あたしはそれに軽く肩をすくめて分かっていますよ、というジェスチャーをする。
「ちゃんと自分で考えて、ちゃんと自分で何とかします。……大丈夫、本来はこんなの人に頼ることですらないんだから」
意図せず吐き捨てるようになってしまった言葉を誤魔化すようにもう一度山ちゃんに笑って、進路指導室を逃げるように出ていく。
扉をいつもより乱雑に閉めて廊下を進んでいく。
進路指導室の近く、教室に向かうための最初の曲がり角を曲がった瞬間、あたしは何かにぶつかった。
大きさと固さ的に、人。あたしが吹っ飛んだから、多分男性。
痛む鼻を押さえて、それでも「ごめんなさぁい、ぶつかっちゃった」と声を発してぶつかった相手を見る。
「あれ?なるちゃん」
「安堵さん……」
「ごめんね、前見てなくってぶつかっちゃった!怪我ない?」
「怪我はないよ。ないけど……」
どことなく歯切れの悪いなるちゃんに首をかしげる。
いつもだったら「大丈夫?」の一言と共に手を差し伸べて終わるのに、なるちゃんはあたしを見ては言いづらそうに口をもごもごさせている。
そうして意を決したように口を開いた。
「安堵さん、進路希望調査表、ちゃんと書いて出してないよね」
なんでそんなことを聞くんだろう、単純に不思議できょとんとしてしまう。
田中が言ったことを聞いて判断したんだろうか、でも彼の発言だけなら不備があったというようにも取れないことは無い。
日ごろの行いと言う単語もよぎったけれど、そもそも推測だけでどうして「ちゃんと書いて」いないということを断言めいた口調で言えるんだろう。
そこではた、と思い至る。
そうだ、なるちゃんは未来から来たんだった。
「なあに?それも時渡りで見たことあったんだ?」
「それもあるよ」
「それも?」
「陣内さんが、安堵さんの様子がおかしいって言ったんだ。いつもと違って何か悩んでいるみたいだけど、自分じゃ上手に聞けそうもないから僕に行ってくれないかって。僕なら知っている情報もあるから上手に相談に乗れるんじゃないかって」
「ここちゃんが……」
様子のおかしかったここちゃんを思い出す。
彼女はあたしが出ていくのとほぼ入れ替わりに帰ってきたなるちゃんに自分が感じた違和感について報告し、それを聞いたなるちゃんがここで待ち構えていたようだった。
「僕の知っている未来では、安堵さんはこの時期にまだ進路を決めていなかったから、もしかしたらそのことについてかなと思って。未来について話すことはできないけど、僕で相談に乗れることなら聞くよ」
なるちゃんが人のいい、優しげな笑みを浮かべる。
善意100%って感じのその笑顔はいつもなら「なるちゃんって良い人だね」って笑えるのに、なぜだか妙にいらっとした。
笑顔にいらっとしたというよりは、むしろ。
「……いいね、未来を知ってるって」
「え?」
さっき山ちゃんに対して出した声よりもさらにとげとげしい声だということは自分でもわかった。
ぎょっとしたように表情を固まらせてこちらを見てくるなるちゃんに気付く。
なのに言葉が止まらない。
いつもはセーブできるはずの感情が、なぜか今日は抑え込めない。
「なるちゃんはあたしがどうなるか大体知ってるんだもんね」
「あ、安堵さん?」
「こうなるって分かってる未来について自分で決められないあたし見てるのってさ、なるちゃん的にはどんな気持ちになんの?やっぱ無様だなって思うわけ?」
「安堵さん、ちょっと待って、落ち着こう」
冷静だよ、と答えた声が冷え切っている。
この声のトーンには聞き覚えがあった。
怖い思いをしてもつらい思いをしても痛い思いをしても、結局自分を助けてくれるのは自分しかいないって知った時のあたしの声だ。
この件だって結局はそうで。
誰に相談したって、結局自分に答えをくれるのは自分しかいないのに。
そんなことすらまともにできない自分が情けなくてやるせなくて、ちゃんと決められた人たちが羨ましくて悔しくて、あたしの出した答えを知っているなるちゃんが恨めしくて憎らしい。
知ってるなら教えてくれてもいいのに、って思うことがずるだって知ってる。
みんなそんなずるしないで、なるちゃんだって自分自身の未来は知らずに自分で答えを出してるって分かるのに、言葉が止まらない。
「みんながみんな折り合いつけて上手に決められると思わないでよ」
ぼろ、と。
熱いものが頬を転がり落ちていく、そんな感覚がした。
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