§3
なるちゃんが目を見開いているのが揺れる視界でもわかった。
熱い水滴が頬を何回も伝って、廊下に吸い込まれていく。
「あ、安堵さ……」
「帰る」
くるりと体を反転させて、教室の方向じゃなくて、昇降口の方に向かう。
慌てたようになるちゃんがついて来ようとした気配がしたから、首から上だけをぐるんっとひっくり返して「ついてこないで」と吐き捨てた。
びくん、身をすくませたなるちゃんは見たこともない表情でこちらを見ている。
優しい人だってこと、良く知ってる。
きっとこんなに激しい悪意を向けられたことはないんだろうなって、そう思ったらなおのこと憎らしかった。
未来を救うって目的が与えられてて、そのために行動できて。
その結果がちゃんと返ってきた人に、何にもできないあたしの何が分かるんだろう。
「おい、王子?天音見つかったか――って、どうした」
廊下の向こうからかげちゃんとゆいつん、ここちゃんが顔をのぞかせる。
途方に暮れた表情で振り返ったなるちゃんを見て全員が不思議そうな顔をあたしに向けてくる。
いつも通り、なんでもないよって笑おうとした。
笑顔の代わりにくしゃり、顔が歪む。
「天音ちゃん!?」
なんで泣いてんの、どうしたの!
ゆいつんがいつもみたいに声をかけてくれる。
駆け寄ってこようとするのが見えて、反射的に「こないで!」って大きな声が出た。
ゆいつんの後ろ、同じように近寄ろうとしていたここちゃんの足も止まる。
かげちゃんが険しい顔であたしを見た。
「……おい、天音」
「帰る。……あたし、もう帰る!!」
「天音!!」
かげちゃんの声が、怒りを孕んだのを感じた。
それに負けないくらい、大きな怒りがあたしのおなかの中で炸裂したのを感じる。
「学校にいたってなんにも解決しないんだから、帰ったっていいでしょ!!」
「だから、何が解決しないかもわかんないだろうが!王子も結菜も陣内さんも、お前の様子がおかしいってことしかわかんねえんだよ!」
「いいよ、みんなに言ったって仕方ないことだもん!」
「……天音ちゃん、それ本気?」
傷ついたようなゆいつんの声にじくりと左のお乳の奥が痛んだ。
いつだって、世界を救うって局面でだって顔色を変えなかったゆいつんの目が、悲しそうに揺れている。
あたしの言葉で、ゆいつんが泣きそうな顔をしている。
「本気で、私たちに相談しても仕方ないって思ってるの?」
「……思ってるよ」
「うそ、ちゃんと私の目見て言いな」
思ってるったら!
大きな声を上げて、生まれて初めてゆいつんをにらみつけた。
高校からこっちに来て、右も左もわからなかったあたしに、初めて話しかけてくれた女の子。
出席番号順に振り分けられた教室の中で、安堵と来栖はたまたま隣同士だった。
お姉さん気質で面倒見が良くて、優しくて頼りになって大好きなゆいつん。
でも、そんなすごいゆいつんの隣にいるの、本当はずっと苦しかった。
なんだってずばずば決められて、誰にたいしても平等で、あの時だってカンゼンムケツって感じで、あたしなんか足元にも及ばないってずっと思っていた。
かげちゃんだってそう。
入学して最初のクラスは、ゆいつんを挟んで隣の席だった。
綺麗なお顔で結構キツイことを言うからみんなおっかなびっくりだったけど、それでも本当は優しい人なんだって分かったのも早かった。
頭が良くて運動もできて、めんどくさそうにしてるけど誰より責任感が強いかげちゃん。
始めはネガティブな理由だったとしてもきちんと自分の未来を見据えているかげちゃんが、本当はずっと羨ましかった。
努力してるなんてあたしたちには見せないで、でもやることはきっちりやって、なんだかんだ言いながら人のことを思いやれる人なんだって、ちゃんと知っていたから。
なるちゃんは2人と比べたら仲良くなったのは全然後のほうだけど、でも知ってることはたくさんある。
案外おっちょこちょいで、騙されやすくて、でもみんなのことが大好きで、自分のためじゃなくて誰かのために行動できる人。
なるちゃんにとっての「今」を変えるためにきたくせに、あたしたちのことが好きになったからってあたしたちの「未来」のために戦えるなるちゃんが、本当は憎らしかった。
自分のために一生懸命になればいいのにそんな垣根を軽々飛び越えられる気持ちの強さとか、誰かのことをソントクカンジョウなしで大事にできる優しさは、あたしにはない。
誰も彼もが黙ってしまった空間をチャイムが割っていく。
「安堵さん、だ、だめだよ。喧嘩は、よくないよぅ……」
その音にまぎれるように声がした。
あたしは声の主――震える声で制止したここちゃんに目線を移す。
ひ、と引き攣った声を上げはしたけれど、ここちゃんは目を逸らさずにあたしを見返した。
そういうところ。
臆病そうに見えるのに、根っこは誰より勇敢で、自分のやりたいことに全力投球できて、それを自慢しないここちゃんが、本当は、ずっと。
「自分で未来を決められる人は……才能がある人は、いいね?」
吐き出した言葉は、きっと毒だ。
才能があるかどうかなんて、人が決めていいことじゃないのに。
ああ、あたし、すっごく嫌な顔してる。
きっと今のあたしの顔は、前にここちゃんに教えてもらった、夜叉の顔みたいなんだろう。
だってほら、みんなが信じられないものを見るような顔をしている。
「みんなすごいね、なんでそんなちゃんと自分の将来のことを考えられるの?どうして?……あたしにはわかんないよ」
本当は、ずっとね。
なんでみんながあたしなんかと一緒にいてくれるのか、不安でたまらなかったの。
自分の将来すら自力で考えられないような情けないあたしと、自分で道を拓いていけるみんなが、どうして並んで歩くことができるんだろう。
いつか置いていかれるってわかってて横に並ぶことなんて、怖くてできない。
「あたしみたいなクズの気持ちなんて、みんなに分からないよ」
ぱぁん。
乾いた音が響いて、視界がぐわんと回転する。
そのままよたよたと数歩下がって、あたしは尻餅をついた。
目の前、肩で息をしながら手を振り切った姿勢のまま固まるゆいつんを見上げる。
一拍遅れてじぃんと痺れが左のほっぺを走っていった。
叩かれた、と認識したのはそれからまた一拍あと。
自分であたしのことを叩いたのに、ゆいつんは信じられないものを見るようにあたしと振り切った右の掌を見つめている。
すぐさまかげちゃんがゆいつんを後ろから羽交い絞めにしたのが見えた。
「結菜!!」
「安堵さん!!」
かげちゃんの叱咤の声とここちゃんの悲鳴が重なる。
遠くの教室から他学年の先生が顔をのぞかせたのが見えた。
がらり、進路室の扉が開くのも同時。
瞬間、あたしははじかれたように立ち上がった。
スカートの中が見えそうなくらいの勢いで跳ね起きて、決して速くはない脚をフル稼働させて走る。
進路室の扉から見慣れた姿が出てくる、それより早く階段を転がり落ちるように下っていく。
鞄も持たず靴すら履き替えず、昇降口の鍵を開けて学校を飛び出した。
後ろからあたしを追う声はしない。
走ってくる足音も聞こえない。
それでいいと思った。
みんな全部聞いていた。
あたしがどんな人間か、きっとよく分かった。
どんなに嫌な人間で、情けなくて、だめな人間か、きっとみんなは分かってくれた。
自分ができないことを努力もせず、人に八つ当たりするなんて最低だ。
みんな才能だけであれだけの力を持ってるわけじゃないって知ってる。
ゆいつんがどんな日も欠かさずチアの練習をしていたことを知ってるし、かげちゃんが探偵としての力をつけるためにいろんな話を聞いてたことも知ってる、なるちゃんの家には将来に関わる本があったし、ここちゃんはたくさんの歌詞を作って数多くの曲を作っていた。
あたしは――あたしは。
なんか好きだったからって理由で写真を始めて、それだけだ。
みんなみたいにちゃんとした努力をしてこなかった。
だから今、自分で決めようとした夢すらわからなくなっている。
「サイテーだ……」
走り疲れてその場に座り込む。
あの時コスモスを探した河川敷はびっくりするくらい人気がなかった。
上がった息を整えたくても次から次から涙がこぼれてきて、一緒に嗚咽も上がってくる。
しゃがみこんだ姿勢のまま、ススキに埋もれるようにして泣き声を殺す。
泣くのはずるだ。
泣くのは悪だ。
――泣いたらなんでも解決するって思ってるんでしょ?
頭の中でたくさんの言葉が氾濫した川みたいに零れて流れていく。
泣いちゃだめだ、分かってる。
泣き止め、泣き止め。
「あれ?泣いてるの?」
そんなときだった。
頭の上から聞きたくない声がしたのは。
のろのろと顔を上げる。
金色の瞳と目があった。
「……ハラダ……?」
「うわ、酷い顔だねえ」
けらけら、そんな擬音が似合いそうな顔でハラダは笑った。
聞いてもいないのに「ススキの中に青色があると目立つね、動かないから何があるのかなと思って見に来たんだ」としゃべりながら、隣に腰を下ろそうとする。
「こないで」
低い声が出た。
ハラダはそれを聞くときょとんとした顔をして、ああそう、と相槌を打って少し離れたところに座った。
いや、なんで座ってるんだろう、この人。
あたしがなんとも言えない顔をしていたからか、ハラダは首を傾げたあとで口を開いた。
「いや、君は結城の友達だろう?兄として、弟の友達の悩み事を聞くくらいはしてもいいと思わないか?」
「……うっさんくさ」
「相変わらず君は僕に対して辛辣だねえ」
またけらけらと笑う。
あたしの言葉の調子が分からないほどこの人が馬鹿じゃないことをあたしは知っていた。
あの時は嫌いで嫌いで仕方なくて、今でも突き放すような物言いをしてしまうけれど、でも前ほど嫌いではない。
いまさら優しくすることなんか柄じゃないからできないけど。
黙って座ったまま、時間が過ぎていく。
「で、なんで泣いてたの?」
たっぷり時間が経った後で、うさんくさい笑みを浮かべたままハラダがそう言う。
なるちゃんとよく似た金色の目を細めてあたしを見たその顔は、心配とかそういうものじゃなくて世間話として聞いた感じだった。
目の前の人間が泣いてたから聞いてみただけだよってくらい軽い感じ。
適当過ぎて笑っちゃうくらい。
「なぁに?ちょーうざい」
うざいって言いながら、あたしの口はするするとハラダに今日あったことを告げていく。
嫌いなハラダにはいくら嫌われたって痛くもかゆくもないからなのか、自分の嫌な部分が口からどれだけ零れても何も思わなかった。
ふんふん、へえ、ほお。
適当のキワミみたいな相槌を打って、ハラダはただただあたしの話を聞いていた。
「進路で悩む、かあ。贅沢なことだねえ」
ぼそり、ハラダが聞こえるか聞こえないかくらいの声で言う。
落ち着いてきたあたしはその言葉にカッと熱が上がったのを感じた。
こんなにしんどいのに、こんなにつらいのに、何がゼイタク。
あたしがそう言うより早くハラダはぐるんとこちらを向く。
そうしてあたしの目をじっと見据えて、珍しく真面目な顔をして言った。
「少し話をしようか」
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