完結
※田村視点



 先輩方はよく商店街にある銭湯で汗を流す。
 運動部の多い我が校の近くに存在するその銭湯は老若男女に愛されているようだ。
 その銭湯の前まで来て、私は勇気を出して暖簾をくぐった。友人の話を聞いて、決して雰囲気の悪い場所ではないことを知っていたが、私の家族には銭湯を利用する習慣が無かったため、私は今まで一度もこの暖簾の先へ進んだことがなかった。今回私は、この銭湯を利用するのではなく、先輩の忘れ物を届けに来たのだが……

「潮江先輩」

 ローファーを脱ぎ、中へ入ると潮江先輩が椅子に座って飲み物を飲んで待っていた。
 肩にかけたタオルと濡れた髪、そしてすっきりした顔を見ると先輩はどうやら既に風呂から上がった後らしかった。

「すまなかった。俺としたことがまさか部室に置き忘れていたとは……」
「いえ、鍵をかける前だったので気にしないでください。休日前に渡せてよかったです」

 ありがとうな、と先輩は笑った。
 水の流れる音と桶を床に置く音、そして何度か耳にしたことがある他の部の先輩の声が聞える。脱衣所の壁を見ると我が校の学校新聞や写真が貼ってあって、特別大きな銭湯ではないようだが我が校の生徒にもよく利用されているようだ。

「では、私はこれで」

 番台に座っていたおばあさんに頭を下げて銭湯を出ると、少し懐かしいにおいが鼻をくすぐった。塩素のにおいだ。
 今まで一度も利用したことが無いのにも関わらず、懐かしい気持ちになる。これもこの銭湯が愛されている理由の一つなのだろうか、などと考えていると不意に甘い匂いがし、声をかけられた。

「田村?」
「……あぁ、名字か」

 その声を聞いた途端、急にどうすればいいのかわからなくなってしまった。隣に立った名字は笑って「まさか会うとは思わなかった」と驚いた表情をする。

「田村はどうしてここに?」
「先輩に忘れ物を渡しに」
「ああ、なるほど。確かにうちの学校の生徒、よく使ってるもんね。私も入ってきた」

 名字が歩きだし、私もあたかも普通のことのように彼女の隣りを歩いた。
 彼女は笑いながらいろんな話をするが、会話の内容が上手く頭に入ってこない。彼女の普段より赤く染まっている頬や、まだ完全に乾いていない髪が目に入り、頭の中がごちゃごちゃする。私服を着ている名字を初めて見た。彼女のシャンプーの香りなのか、歩いて名字の髪が揺れるたび、甘いかおりを感じた。

   ○

「そういや、田村の家もこっちなの?」

 そう尋ねられた時、私は既に自分の家への分かれ道を通り過ぎてしまったことに気付いた。少し困った顔をした名字を見て、再び心がざわつく。

「薄暗いし、名字をおくってく」
「んー。あと数分で家着くし大丈夫」
「でも」
「ほんとに大丈夫だよ。田村は部活で疲れてんでしょ。はやく帰りな」

 じゃあねと手を振った名字の姿を見て、寂しいと思った。それと同時にその姿が可愛いと思った。同じように私も手をあげて、じゃあと挨拶をすると、名字がまた笑って歩いて行く。その後ろ姿を見て、ごちゃごちゃしていた頭の中がすっと綺麗に片付けられたような気分になった。

 ああ、私はたぶん、名字が好きなのかな。
 どうして彼女を好きになったのかはわからない。いつからなのかも、思いつかなかった。しかし彼女を意識しているということだけは紛れもない事実だとわかっていた。
 甘いにおいなんて、好きじゃないと思っていたが、彼女から香ったあの甘いにおいは嫌いではなかった。むしろ、その逆だと思った。もう少し一緒にいたいと思った。だんだんと、自分が自分ではないように気になってくる。なんだかすごく、自分が動物的なように思えて、少し自己嫌悪を覚えた。

20150708
20160924 再修正

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