完結
※原作33巻の時間軸(番外編「Vol.32」の続き)。




 雨が降る中、多くの人が建物の外に出ていた。
 粒の大きな雨が降っているにも関わらずピリピリとした空気が漂っていて、そこにいる人々は不安そうにしていたり、怒っていたり泣きそうな顔をしていた。避難しているため当たり前とはいえ、誰一人として、笑った顔をしている人はいない。誰もが何か思うことがあるような顔をしていた。
 表情が暗い人々を見渡しながら、どうしようと拳を握る。どんなに考えたって何も良い案は浮かばず、そして私が何かしたところでこの空気が良い方へ変わるようには思えなかった。

 少し前に雄英に避難したものの、出来ることは少ない。
 勿論それは私が学校関係者ではないというのも一つなのだが、それ以上に、避難している人々の不安を抱える様はプロ時代に訪れた避難所に漂っていた不安とはまた違うように思えた。だから、その時の経験が上手く活かせる気がしないのかもしれない。
 事務所のヒーローから定期的に送られてくる連絡で今の状況を確認し、先生方と協力して雄英に避難している人々の心のケアに努めるも、そう上手くはいかない。
 根津校長の説明を聞いても、人々の不安は拭えていないようだった。雄英に戻ってくる少年を受け入れることが出来ないと口にする人は一人二人の話ではなく、そして誰一人として、それを意地悪で言っているのではないことは表情を見れば明らかだった。


 丁度それは、説明を受けてから時間が経って人々の不安が徐々に大きく表れてきた頃合いだった。ボロボロの緑谷くんが雄英の生徒と共に現れたことで、辺りの緊張が一気に増したことを肌で感じた。
 そして、粒の大きな雨が頬に当たったのと同時に緑谷くんが雄英の敷地に入ることを拒む人々の声が辺りに響いた。

   〇

 ヒーローは決して無敵ではない。
 どんなに強いヒーローも間違いなく人間で、心を持ち、休息が必要だ。

 プロとして事務所にいた頃、ヴィランと戦って勝利した時に出来た向こう傷を勲章だと笑ったヒーローのインタビューを見たことがある。インタビューを受けていたのはベテランのヒーローで、多くの人を助け、ファンも多く、尊敬するヒーローの一人であった。
 それでも、どんなベテランヒーローだって怪我をしたら当然痛いに決まっている。カメラの前では笑えたとしても、人々が見ていない場所では苦しみ――そして、ヒーローを辞める選択肢を選ぶことだってある。

 爆発した不安と怒りの声を聞いて、昔、足に攻撃を受けて出来た傷跡の部分がちくりと痛んだ。背を丸め、胸に手を当てる。避難して不安な気持ちでいる人々の不安を拭うことも出来ない無力さを痛感した。

 けれど、だからこそ――

「かっこいいなぁ……」

 緑谷くんの傍から飛び出し、建物の上から拡声器を使って市民へと言葉を掛ける少女を見上げる。
 多くの人を前に気持ちを伝えるのは怖いだろうに人々へ語る声には力があり、心からの訴えを聞いていくうちに私は涙が止まらなくなっていた。
 コスチューム姿は見たことなかったため最初は誰だか気付かなかったけれど、声を聞いているうちにインターンに来ていた爆豪くんと体育祭で勝負していた麗日さんではないだろうかと、途中で気付く。
 体育祭の試合を見た時に彼女は諦めない良いヒーローになりそうだと思ったけれど、高校生の成長には目を見張るものがある。緑谷くんの居場所を守るために訴える彼女は確かにまだ十代の高校生だけど、紛れもなく、立派なヒーローだった。

 緑谷くんの周りに人々が集まるのを見ていると、エクトプラズム先生がやってきて私の名を呼ぶ。
 元プロとして、そしてエンデヴァー事務所の事務職員として、出来ることはしたいと根津校長に話をして雄英に避難している人々のサポートをしていたら先生方と関わることも増え、エクトプラズム先生とも何度か話をしたことがあった。
 何か新しい仕事でも頼まれるのかと思って涙を拭いながら先生の声に応えると、驚くことに先生は、エンデヴァーさんが雄英にいるとこっそり教えてくれたのだ。

「今ナラ、話セル」

 エンデヴァーさんは壁の出入り口付近にいると教えてくれたエクトプラズム先生に頭を下げ、急いで向かう。古傷の痛みなんて気にせず、着ているレインコートの裾が足に貼りついて動きにくいのも構わずに、走った。
 ボロボロの緑谷くんを見て、心からの声を訴える麗日さんを見て、緑谷くんに駆け寄る人々を見たら、憧れのヒーローの原点であるエンデヴァーさんと話しがしたくなったのだ。


「エンデヴァーさん……!!」

 他の人に気付かれないように変装をしているのか、エンデヴァーさんはいつものヒーローコスチュームの上に見慣れないロングコートを羽織り、帽子を被っていた。
 周りに聞こえない声量でエンデヴァーさんに声を掛けると、エンデヴァーさんはこちらへ体を向ける。エンデヴァーさんの大きな体の死角に入っていたらしく、傍らには凍焦くんもいた。まさか彼もいるとは知らず、驚きつつも挨拶をすればインターンで挨拶していたことを覚えてくれていたらしい様子で彼は頭を下げる。

「あの、エンデヴァーさん!」
「……なんだ」

 一歩、近付くとエンデヴァーさんは私を見据える。眉は少し寄っていて、目尻に皺がある。少し見なかっただけで、やつれたような印象を受ける。

「あの、えっと……私、やっぱりヒーローが好きです」

 目の前に立つエンデヴァーさんは、私がサイドキックとして働いていた時と変わらず大きい。けれど、目の前にいるエンデヴァーさんは、前よりもずっと覇気がないように見える。失礼にあたるので絶対に言わないが、服も相まって年相応の疲れたおじさんのようだった。
 けど、それこそが、エンデヴァーさんがヒーローでありながらも普通の人間である証のように思えた。そんなエンデヴァーさんを見ていたら、心の底から湧き上がる気持ちが溢れてしまうようだった。

 エンデヴァーさんが、ヒーローを辞めるとは聞いていない。どんなことがあっても、エンデヴァーさんはヴィランと戦うために立ち続ける。
 例えそうすることで、どんなに辛いものが待っていると知っていても。エンデヴァーさんは戦う。エンデヴァーさんはヒーローだから。
 それが、私の知るエンデヴァーというヒーローだ。

「……」
「エンデヴァーさんのこと、応援しています。これからも、あなたの戦う姿を近くで見させてください」

 そう言うと、エンデヴァーさんは困った顔を作った。エンデヴァーさんの隣に立つ焦凍くんも少し驚いた顔をして、エンデヴァーさんと私を交互に見る。

「……名字は、面接でも同じようなことを言っていたな」
「そう、でしたっけ。もう、覚えてないです」
「言いたいことを言って、満足した顔をしていたからな」
「あはは」

 ため息交じりのエンデヴァーさんは少しの間の後、私を見て「校長から話は聞いている。今後も雄英を頼むぞ」と言った。
 いつもと違う恰好でそんなことを言ったエンデヴァーさんではあるものの、その言葉を口にしたエンデヴァーさんの表情は、私のよく知るヒーローの顔をしていた。


「――そういえば、あいつには声を掛けなくていいのか」

 そう言って、エンデヴァーさんは顎でクイっと背後を示す。そこでふと、先ほど避難している人々の前に出たベストジーニストを思い出した。

「あっ!?」

 何故ベストジーニストを見て、彼のことを思い出さなかったのだろう。
 二人がいてNo.2の彼がいないはずがなく、視線をエンデヴァーさんの後ろへと向けると雄英バリアと呼ばれる壁に背中を預けるホークスがいた。

 好きなくせに、彼のことを思い浮かべなかった自分に動揺すらする。それどころではなかったとはいえ彼はNo.2ヒーローで、現在進行形で好きな人で、仮にも恋人のふりをした人だ。
 数メートル先にはホークスがいる。嬉しさと共に、焦るような気持ちになった。少し前までホークスと再会したら告白する気でいたのだが、そんなことを言えるような立場ではないような気がしてくる。

 じっとこちらを見ていたホークスが「名前ちゃん」と、私の名を呼ぶ。軽く手を挙げて眉を下げたその顔は、困ったような笑顔だった。
 ホークスに駆け寄りたい。けれどもエンデヴァーさんの言葉で漸く彼のことを思い出した手前、気後れしてしまう。

「……っ」

 けれど、ここで行かなければ今後彼と以前のように話すことは出来ないような気がした。
 例え私がエンデヴァーさんの事務所で働いていても、どこかでふと鉢合わせても、ただ挨拶をするだけの関係にしかなれないような気がしたのだ。
 それは、嫌だった。

「……ホークス、久しぶり」

 彼の前まで重い足を進めてれば、ホークスは優しい声で「名前ちゃん、久しぶり。元気?」と目を細める。元気だよと言えば、それは良かったと彼は笑う。
 心臓はバクバクと煩く、体が熱い。エンデヴァーさんのもとへ駆けていく際にレインコートのフードが外れてしまったため、髪は濡れてぺしゃんこだ。ボロボロに泣いた影響で顔もひどいし、そもそも避難しているため化粧もしていない。
 そんな姿で今までホークスの前に立ったことはなく、自覚したら急に彼の前に立っているのが恥ずかしくなってきた。エンデヴァーさんの前では、そんなこと気にならなかったのに。

「名前ちゃん、さっき忘れ物に気付いた小学生みたいな顔してたね」
「……そんな……いや、そうだったのかも」
「……俺のこと、忘れてたから?」

 ホークスの言葉に、息を止める。
 視線を合わせればホークスはこちらを見ていた。ホークスは首を少し傾げ、困ったように眉を下げながら「あ、やっぱり合ってた?」と笑う。

「離れててもわかるくらい名前ちゃん動揺してたけど、そんなことで怒ったりしないよ。ほんの少しだけ悔しいような気もするけれど、皆それどころじゃないしさ。それに、エンデヴァーさんからいろいろ聞いてるから。名前ちゃん、避難してる人のことで頭がいっぱいだったんでしょ」

 彼の声は、本当に怒っているようではなかった。責めるようなものでも、からかうような具合でもない。

「俺はさ、そういう……まっすぐな名前ちゃんがいいなって前から思ってたよ」
「――けど」
「名前ちゃんはさ、俺のこと忘れるくらい一生懸命ヒーローしてたってことだよ」

 偉いね、とホークスは私のぺしゃんこな頭を撫でた。頑張ったね、と続けて。
 ホークスは優しい声で何度も褒める。親が子どもを褒めるような具合で言うその声を聞いていたら、ホークスの方がずっとすごいのに涙が溢れてきた。
 偉いねとホークスは繰り返す。けれども本当に偉いのは、すごいのは、間違いなくホークス含め今現役で働いているヒーローたちだ。先ほど見えたホークスの頬にあった傷跡を思い出しながら首を振る。

「ホークスの方が、偉いよ。私なんか、何も……ここに来てからホークスのことも思い出さないで……私、ホークスのこと、好きなのに……普通の人だったら、普通の女の子だったら、そんなことないんじゃないの……?」
「自分の身の安全を守らなくちゃいけない状態では自分のことしか考えられないよ。心の支えが必要で、ふとした時に大好きな人のことを考えることは確かにあるけれど、そんな状態で自分のことより避難してる人たちのことを考えて支えようとする名前ちゃんが俺は好きだよ」

 頭を撫でていたホークスの手がするすると移動して頬を撫でる。
 麗日さんの言葉に泣き、ホークスの言葉に泣き、既に顔は好きな人に晒す状態では既になくなっている。鼻水だけは見せるものかと鼻をすすり、顔を上げた。
 自分が弱っていた時はホークスが隣にいてほしいと思ったことを思い出せば余計に胸が苦しくなった。都合が良い時に救いを求めているようで、自分が嫌になる。それでもホークスは変わらずにあやすように優しく頬を撫で続ける。

「あー、可愛いなぁ。俺のこと思い出さなかったって、ただそれだけなのに」

 それだけで俺はいいんだけどと、ホークスは訳の分からないことを言う。
 満足そうな顔で笑うホークスに驚いて涙は止まった。

「ヒーローしてる名前ちゃんも、弱って俺のことを求める名前ちゃんも、そういうのも全部、俺が名前ちゃんの好きだなって思うトコだよ」

 囁くような声でそう言って、ホークスは笑った。
 頬を微かに染め、好きだと言ったホークスは私の頬を撫でるのを止め、パッと顔から手を離す。

「この間のきっかけは名前ちゃんだったから、今度は俺の番だ」
「……」
「好きだよ。俺の彼女になってくれませんか?」

 なんて言っても、当分恋人らしいことなんて出来ないんだけど。
 ホークスは頭を掻き、そう言った。

「けどさ、ヒーローが暇を持て余す未来でさ、俺は名前ちゃんといたいなって思ったんだ」
「うん」

 引退するきっかけになったあの傷を受けた時、足に出来た傷跡は消えないと病院の先生は言った。ホークスの頬に残った傷跡は、どうだろう。彼の傷も一生消えないのだろうか。
 ヴィランと戦い出来た傷を勲章だとはやっぱり思えないけれど、その傷の痛みを分かち合うことは出来るのかもしれないと、そんなことを思う。そして、ヒーローとしての仕事がない平和な世界で、彼とまた綺麗な夜景を見たいと思った。そしてそれ以外の景色も見てみたい、とも。

 勇気を出して、素直になってもいいのだろうか。そう思いながらホークスを窺えば、彼は笑った。嬉しそうな顔をしていたので、自然と自分の口角が上がったことに気付く。ああ、いいんだと思えたのだ。
 お願いしますと頷けば、ありがとうとお礼を言われた。お礼を言うのは、私の方なのに。


 そろそろ戻るぞと言ってエンデヴァーさんがやってきて、今いるのが雄英だと思い出す。少し離れていたけれど、もしかしてあの会話は聞かれていたのだろうか。それに気付いて顔に熱が集まるも、現実に再び戻すような冷たい雨が頬を濡らした。

 いってらっしゃいとエンデヴァーさんの大きな背中に声を掛け、彼らを見送ろうとしたところでエンデヴァーさんの後ろを歩いていたホークスが振り向く。
 彼はニコリと笑顔を浮かべ、手を挙げた。

「ねえ名前ちゃん。俺を好きになったこと、後悔しないでね!」

20220209

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