完結
 不安に怯える顔を見たかった――あの日、私が遭遇したヴィランが警察署で発言したという言葉を聞いて頭に血が上る。その対象があの小学生だったことは明らかで、唇を噛んで次の言葉を待った。

 視力が回復し、昨日から仕事に復帰した私の最初の仕事は警察署に向かうことだった。
 事件のことで被害者である私本人からも事情を聞きたいということらしく、プロとして働いていた時から馴染みの刑事さんが私を迎えてくれたのだ。
 未だ少しぼやける視界の中で、お世話になっていた当時と変わらない風に手を挙げてこちらに歩み寄る刑事さんは、復帰早々悪いなと言って私を部屋に案内した。
 そこで刑事さんから話を聞くも、やはりヴィランの思考というのは理解しがたいものだった。

「名字さんがプロのヒーローとして活躍していたことを知って、あいつは舌打ちをしたよ。『ああ、だからあの女はあの時ちっとも怖がらなかったのか』って」

 最後にため息を吐きながら言った刑事さんの言葉を聞いて、ヴィランの個性に掛かったのがあの小学生でなくて本当に良かったと心から思った。
 あの小学生は元気かと帰り際に刑事さんに尋ねれば、名字さんが復帰したら事務所に顔を出したいと言っていたよと刑事さんは目を細める。今日見た中で一番の優しい表情だった。

   〇

「あっ、名前ちゃんお疲れ様」
「ホークスもお疲れ様」

 時間を止める方法も、時間を遅らせる方法も、勿論私にはない訳で。つまり、視力が戻った代わりにクリスマスがやってきたのだった。

 三日前、ホークスからメッセージが届いた。
 時間と場所が既に決められており、このお店を予約したから夕食を一緒に食べようということらしかった。内容に了承後、ホークスが予約したというお店を調べれば個室のあるレストランで、出てくる画像を見れば明らかにそれは高級レストランのものだった。
 個室から見える夜景が売りらしく、お店のレビューには「個室で見た夜景がとっても綺麗でした。誕生日にこんな素敵な場所で食事が出来て嬉しいなぁと思っていたら彼氏からプロポーズをされて、忘れられない思い出になりました」なんてものがあった。

 もしかしてホークス、ここで私に別れ話をさせる気だろうか。
 そんなことを思ったのは昨日のこと。
 初めて行く高級レストランでそんな経験したくなかったなと思いつつ、落ち着いた雰囲気の店員さんに案内された個室に入ってホークスを見て察する。聞き慣れた言葉とは反対に、ホークスの表情には笑顔がなかったからだ。

 いつものラフな格好ではなく、紺のジャケットを着たホークスを見て少し驚きつつもドキッとした。普段はふわふわとした髪も今日はオールバックに整えられている。場所が場所なだけにホークスの恰好は当然な訳だけれど、ジャケットを着た彼の姿を見たことがなかったのでびっくりしてしまった。
 見慣れぬわりに様になるホークスの恰好を見ると、私に変なところはないだろうかと不安になってくる。元々クリスマスに会う予定だったから前から美容院の予約も取っていたし、仕事も休みを取っていた。朝から念入りに準備していたけれど、未だに落ち着かない。この日のために買った少し高めのワンピースは、似合っているだろうか。

「俺、あんまりこういうお店得意じゃないんだけどね、クリスマスだからさ」
「私は、初めて……だから、その、私変なところないよね?」
「すごく綺麗だよ」
「……あ、ありがとう」

 さらりと言った言葉に心臓が鳴る。驚いてホークスの方へ顔を群れれば、先ほどとは異なり優しい笑顔をこちらに向けていた。
 ムードのある照明の落ち着いた個室は、想像していた程大きくはなかった。けれどもだからこそ、壁いっぱいのガラス窓から見える夜景は言葉にすることが出来ないほど綺麗に見える。

「外、綺麗だね」
「うん。そうだね」

 食事を待っている間、いつ視力が戻ったのか、怪我は治ったかと聞かれ、順々に返事をしていく。手のひらの傷はカサブタになり、痛みはもうないと言えば少し安心したようにホークスは息を吐いた。

「そうだ。これ」

 そう言って、ホークスは私に小さな紙袋を差し出した。
 クリスマスプレゼント、と言われ礼を言って受け取る。聞いたことのあるブランドの名が書かれた紙袋に少し驚いていると、楽しそうに「開けてみて」と言われる。中に入っている箱を取り出して丁寧に箱を開けていけば――

「キーケースだよ」
「あ、ありがとう」

 正直、キーケースはずっと買おうかどうか迷っていたものだった。
 今の部屋に越してきてからずっと、良いものがあれば買いたいなと思いつつそのままにしていたから、驚きながら「なんで欲しいってわかったの?」と聞けば「え!?」とホークスは目を見開いた。

「いや、持ってないんだなーってのはこの間わかったから、あったら便利だしなぁと思って。けど、そこまで驚かれるとは思わなかった。気に入ったなら使って」

 半ば強引にホークスを部屋に呼んだ時、小さなキーホルダーを付けた鍵で玄関を開けたのをホークスは見ていたのかもしれない。それにしても恐ろしいほどの観察力だと思いながらもう一度礼を言い「私からは、これ」とホークスに紙袋を差し出す。

「ありがとう。開けていい?」
「どうぞ」

 二つも入ってるね、と驚きつつも嬉しそうに笑うホークスに照れくさくなりながらペリペリと包装紙が解かれていく音を聞く。
 忙しない心臓に気付かないふりをしながらホークスの反応を見れば「あっ、こっちはマフラーだ」と言って彼は目を細めた。暖かそう、ありがとうと言って濃いグレーのマフラーを広げ、ホークスはこちらに笑いかける。勿体ないなぁと言うので、そんな大層なものじゃないよと言えば、彼はへへと嬉しそうに笑った。
 じゃあもう一つ、と言って紙の包装が丁寧に開けられた時、ホークスは一瞬動きを止めた。

「それは、私が一番好きな絵本」

 勿論新品だよ、と冗談めかして笑って付け加えれば、ホークスは言葉なく頷いた。

「前に言ってた、イカロスの本だね」

 その本をプレゼントに渡すのが正解なのか、今でも正直わからない。けれども私の大切なものを、私の大切な人に知ってほしかった。
 大きく羽を広げたイカロスが太陽を目指すイラストを、ホークスに見てほしかった。目を惹かれ、心奪われた幼い私の気持ちが少しでも伝わったらいいと思った。ホークスはイカロスの話を知ってはいても、この本の存在は知らなかったようだから――

「時間がある時にでも読んでほしいなって思って」
「うん。ありがとう」

 大切にする、とホークスは小さな声で言った。


 見た目も味も良い料理に幸せな気持ちになりながら、デザートが運ばれたところでホークスの名を呼ぶ。
 ツリーのようにピスタチオのクリームが盛りつけされた小さなケーキを見ていたホークスがこちらを見た。よほど神妙な顔でもしていたのかもしれない。私の顔を見てすぐに理解したかのように、ホークスは真面目な顔をする。
 唾を飲み込んで、ホークスから視線を外して「ホークス」ともう一度彼の名を呟く。声は上ずって、少し震えていた。

「今日はありがとう。いつも、良くしてくれて本当に嬉しい」
「うん」
「けど……急な話だけど、今日で、今日で……」
「……」

 ワンピースの裾をぎゅっと握る。皺になっちゃうかもしれないけれど、そうでもしないと言えそうになかった。

「……お別れを、してほしくて」

 本心ではないこんな言葉を、こんな素敵な場所で言いたくはなかったというのが本音ではあれ、仕方がないことだということはわかっている。
 この関係は私の言葉によって始まったのだから、当然私が終わらせるべきだ。

「……あのね、ホークスは忙しいでしょ。だから、付き合ってもらう時間が長くなればなるほど申し訳ないなって思うようになって、それで……」

 下手な嘘をついたらバレるだろうということはわかっていたから、これは全くの嘘ではない。

「いつも、福岡から会いにきてくれて嬉しかった。けど、何かあって私が会いたいって思っても、簡単に会えないでしょう。だから、少しずつ、辛いなぁって」
「……」
「遠距離なんて、私に出来るわけなかったんだって最近気付いたの。付き合ってくれてありがとう。けど、もう、無理なんだと思う。お互いそっちの方が、きっといいと思ったの」

 ホークスの瞳が揺れる。眉を下げて、困った顔をしていた。

   〇

 帰宅して、今日一日の緊張を取るためにお風呂に入る。服を脱いで、とぼとぼ浴室へと足を踏み入れれば少し前に入れておいた入浴剤の優しい香りでいっぱいになっていた。

「ありがとう、名前ちゃん」

 お店の前で別れたホークスの表情を思い出す。困った顔は何か言いたげで、けれどもそれが結局なんという言葉なのか、私にはわからなかった。ありがとうと言った彼の声は随分と優しくて、まるで今生の別れのように言うホークスが嫌だなと思った。
 クリスマスまでの一ヶ月と少しの間、恋人のフリをしようと提案したのはホークスだったけれど、彼のことが好きだと理解した時点で私から告白していたら、もしかしたら今日の日のような終わりは迎えなかったかもしれない。
 この関係を本物にすることをホークスが望んでいないような気がしたけれど、結局のところ本人に尋ねたことはなかったし、ホークスの本心は分からないままだ。聞けばよかった、と今は思う。好きだと言ってしまえば、きっとあんな素敵なレストランで好きな人に別れを告げる経験なんてしなくてよかったかもしれないのだから。


 ホークスは多分、私に良い彼氏が出来ることを願っている。悪い男の人に引っかからなければいいなぁなんて思って、最後のお別れをしたに違いない。
 この一ヶ月でホークスのことを全て理解したとは言えないし、言葉にせずとも本心がわかるような関係にはなれなかった。けど、彼が私に察してほしいと思う気持ちが何かを理解出来る程度には親しくなれたと思う。
 ホークスはきっと、私が彼のことを好きだという気持ちを知っているし、恋愛経験がない私でも、ホークスが私のことを嫌いではないことは理解出来ていた。本心はわからなくとも、それくらいはわかる。

 けど、明日からの私たちに繋がりはない。
 ホークスは、これが良いことだと思っている。
 それがなんだか少し、悔しかった。


 いつか、ホークスが今追っている仕事の結果が出るだろう。それはおそらく、私がエンデヴァー事務所で働いていれば遅かれ早かれ耳にする事柄であるに違いない。
 じゃあ、と思う。それが終わったら、福岡で自由に空を飛ぶホークスに会いに行こう、と。
 好きだと言って、付き合ってほしいと、彼に気持ちを伝えよう。それで断られたら潔く諦めればいい。

 メイクも汚れも落として体がすっきりしてから湯舟に浸かる。心の方がすっきり出来なかったのは、仕方がないのかもしれない。
 ちゃぷりとお湯が音を立てるのを聞きながら息を吐く。
 彼の本心を教えてもらうまで、決して泣いたりなんかしないと心に決めてゆっくりと目を閉じた。

20210222

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