完結
 プロヒーローを引退した今でも、私は自分の身がどうなろうとも助けられる命があるのなら助けたいと思っている。
 どんな時であれ、どんな状態であれ、一度プロとして生きた時間があったからこそ私はその選択肢を選ぶ。今でもエンデヴァー事務所で働いているのは、そのためだ。
 あの小学生を助ける選択肢を選んだことを後悔なんてしない。個性に掛かろうと、怪我を負おうと。例え、それが原因で命を落とそうとも、後悔なんてしない。
 今まで何度もそういう選択肢を選んできた。少しでも後悔をしないよう、少しでも多くの人を救えるよう。それは、私にとって当たり前だったからだ。


「――お前の心はずっと、ヒーローであり続けているんだな」

 事務所に戻ってエンデヴァーさんに諸々の報告を済ませると、ぼそりとエンデヴァーさんが呟いた。その言葉に驚いていると「変なことを言っていると思うか」と、低い声で問いかけるように言われる。

「エンデヴァーさんって、雄英出身だからか時々熱いこと言いますよね」
「なんだそれは。じゃあ、士傑はどうなんだ」
「……あー、失礼しました。学校は関係ないですね」

 私をヒーロー扱いしてくれる人が少なくなっている中で、短い期間ではあったけれど、サイドキックとして働いていたおかげでエンデヴァーさんの心の中では名字名前という人間は永遠にヒーローという存在で居続けることが出来るのかもしれないと、ちょっと照れくさくなりながら思う。
 尊敬している先生に褒められたような気持ちになって恥ずかしさを誤魔化すように雄英出身であることを言えば、エンデヴァーさんは反論してきた。
 目が見えなくても、声を聞けばエンデヴァーさんがどんな表情をしているかはすぐにわかる。眉を寄せて、何を言っているんだといった顔をしているに違いない。エンデヴァーさんは、昔からとってもわかりやすいから。

「……言い方が、少しあいつに似ていたな」
「あいつ、ですか?」
「ホークスだ」

 その言葉に思わず「えっ!?」と声を上げる。部屋に二人きりとはいえ、まさかエンデヴァーさんがホークスの話題を出すとは思わなかった。
 ここ最近、エンデヴァーさんは息子さんである焦凍くんの話題を少しずつ出すようになった。それでも、エンデヴァーさんの方から仕事以外の話をすることは滅多にない。私語が禁止というわけではないし、休憩時間に話しかければ仕事以外の話もしてくれる。ただ、エンデヴァーさんの方から話題を投げかけてくることがないだけ。
 だからこそ、驚いた。ホークスの名が出たことも、私の言い方がホークスに似ていると言われたことも。

「似て、ますかね?」
「ああ」
「へ、へぇ……」

 どぎまぎしながらエンデヴァーさんの反応を待っていると、小さくため息を吐いて「福岡で、お前の話を何度か聞いた」と言われる。

「えっ?」
「新人の頃、福岡で人命救助をしている場面に出くわした、と。それから応援していたんだと……なんだ、聞いていないのか? 最近仲良くなったんだと嬉々として報告してきたんだが」

 一気に顔が火照る。ホークスはエンデヴァーさんに何を言ったんだろう。
 顔から火が出そうで、拳を握って俯く。「聞いてないです」と言えば、エンデヴァーさんはフンと鼻を鳴らした。

「頻繁に連絡を取っている間柄なら、報告しておいた方がいいんじゃないか」
「報告、ですか」
「あいつは、欲しいと思ったら我慢が出来ないんだと言っていた。今回のような事件に巻き込まれたと後で知れば、面倒だろう」
「そ、そこまでの間柄では……」
「まあ、それを決めるのは名字自身だが……頼ってもらえるはずの場面で頼ってもらえなかったと知る瞬間は、ヒーローには辛いものだ」

   〇

 新人ヒーローが待合室に現れて声を掛けてくれた時、私は少し泣いてしまった。後輩が困ってしまうじゃないかと思いつつ、安堵した気持ちを抑えきれなかったのだ。
 ごめんと謝れば、自分が遅かったせいでとヒーローが慌てていたのが声でわかった。安心して気が抜けたのだと言えば、次は不安な気持ちを抱かせないようなヒーローになりますと言われ、笑ってしまった。元気が出たと言えばよかったですと、見えないはずのヒーローの笑顔が見えた。

 ヒーローが現れる瞬間の安心感を、私は知っていたはずだった。
 恐怖に震え、いつ助かるかわからない中、暗闇の中で一筋の希望を見つけたような瞳を、私はこれまでに何度も見てきた。張り詰めた緊張を解いて安心して泣いてしまう人たちの姿を見た回数は、片手では足りない。
 あの人たちも、今の私のような気持ちを抱いていたんだろうか。


 事務所に戻り、エンデヴァーさんへの報告も終えると仕事が出来ないために帰宅することになった。
 同僚に手伝ってもらいながら身支度を済ませれば、一人では帰ることが出来ない私を待機中のバーニンさんが部屋まで送ってくれるという。
 待機中の時間だから問題ないと言うバーニンさんの話を聞いて申し訳ない気持ちになれば、バーニンさんは「そんなに申し訳ない顔しないでよ。体を動かせて嬉しいくらい!」と言う。こちらの不安を笑い飛ばすような声は気にしないでいいんだよと言ってもらえているようだった。

 数日は自宅で休養することになり、バーニンさんはひとまず目が見えなくても食事が取れるよう、近所でパンや飲み物を買ってきてくれた。
 最初は事務所にある宿泊施設を使わせてもらう予定だったけれど、事務所にいるのに仕事が出来ないとなるともどかしく感じるだろうし、結局事務所にいる人に諸々手伝ってもらうことになると気付いて止めた。
 実家に連絡すれば母が世話しにやってきてくれるだろうけれど、事情を説明しただけでいろいろ言われそうでそれも止めた。病院の先生の話によれば、一週間もあれば元に戻るというのだから、ゆっくりすればいいだけのことをわざわざ自分から話を大きくするつもりはない。

「本当にありがとうございます」
「無理だけはしないこと」

 はい、と元気よく言えば、バーニンさんはまた明日様子を見に来るからと言って帰って行った。
 必要なものを出して、すぐには使わなさそうなものは片付けてもらえたおかげで目が見えない間の生活もなんとかなりそうな気がしてきた。そうはいっても苦労はするだろうけれど、絶望的な気持ちにはなっていない。ひとつひとつ、物のある場所を確認して触らせてもらったことで頭の中を整理したおかげもあるだろう。
 それにしても、いかに自分が視覚に頼って生活していたのかを実感させられる。元に戻ったら事務所の人にお礼をしなきゃと思いながら玄関の鍵をしっかりと掛ける。
 壁伝いに部屋に戻れば、シンと静まり返った部屋に少し不安を感じ始めた。

 どのくらいで元に戻るのだろうか。
 一人でいるとそればかり考えてしまいそうだ。少しでも見えるようになったらだいぶ違うだろうになぁと思いながら手に取ったクッションを抱え、ごろりと床に転がる。

「疲れた」

 体力落ちたなぁ。
 正確な時間はわからないけれど、まだ決して日が暮れる時間ではないはずで。自分のことながら、数年前までプロをやっていた人間とは思えない。視力が戻ったら筋トレとかジムとか、ちょっと考えた方がいいかもしれない。
 転んだので本当はお風呂にも入りたいけど、浴室で滑って怪我をしたら今度こそ大変なことになる。どうしようとうだうだ考えているうちに、暖房の効いた部屋の中、うたた寝をしてしまった。



 コツリと音がして目が覚める――も、辺りは真っ暗だった。
 体を起こして驚いて辺りを見渡すも、何も見えない。どうして、と煩く跳ねるような胸を押さえて、漸くヴィランの個性に掛かったことを思い出した。
 今は何時だろう。時計が見えないから時刻もわからないけれど、ちょっとお腹がすいている。バーニンさんが買ってくれたパンでも食べようかと思っていると、左の方から音が聞こえた気がした。

 自分の体がどこを向いているのか確かめるように辺りのものを触れば、ベランダの方から音がしたらしいと判断出来た。ゆっくり腰を上げて慎重に歩けばガラスに手が触れる。
 そこに立つと、見えないはずの暗闇の中にぼんやりと明るい光が見えた。夕日が見える時間だろうかと一瞬思ったけれど、部屋の位置的に夕日ではないだろう。じゃあ、なんだろう。月明かり、とかだろうか。
 病院の先生の話によれば、体をしっかり休めることが重要らしい。昼寝によって光を感知するまでに至ったのだろうかと考えていると、ベランダの方でまた微かに音がした。

「……?」
「――名前ちゃん」

 ガラス越しに私の名を呼ぶ小さな声が聞こえたような気がして驚いて急いで鍵を開ける。ドアを開ければジャリと音がして、一気に冷たい風が部屋に入り込んできた。

「ごめんね、名前ちゃん」

 泣きそうな声だと、最初思った。
 ホークス、と目の前にいるだろう人の名を呼ぶ。目は見えないけれどきっと間違いじゃない。目の前にいる人はホークスなのだと、声だけでちゃんとわかる。声を聞いただけで嬉しくて、幸せな気持ちになる。
 初めて会話をしたあの日は、こんな気持ちになるなんて思ってもいなかった。

「ホークス!」

 どうしてベランダにいるのかとか、どうして泣きそうな声をしているのかとか、そういうことを聞けるのなら聞きたかったけれど、それよりもまず彼に触れたかった。腕を差し出せば勢いよく抱きしめられ、冬の匂いの混じった彼に包まれる。
 ぎゅっと、力強く抱きしめるホークスの体は冷たかった。


 ホークスを部屋に招けば、彼は客であるにも関わらず温かいホットミルクを作ってくれた。
 今日のあらましを伝える間、ホークスは静かだった。急遽用事でこちらを訪れていたホークスは、エンデヴァー事務所の近くでヴィランが現れたことを知ってふらっと寄ってみることにしたらしい。そこで偶然パトロール中のエンデヴァーさんに遭遇し、私が事件に巻き込まれたことを知ったのだという。

「個性に掛かったって話は聞いたけど、詳しいことは聞かなかったんだ」

 だから、驚いたとホークスは力なく言った。

「エンデヴァーさんの話を聞いたら、帰るルートを少し変えようかなって思った。名前ちゃんの部屋に電気がついてるのを確認したら、帰ろうって。だけど、いざ見たら部屋は暗いし偶然起きた名前ちゃんがすごく不安そうな顔をしてたから……」

 だから、ホークスはベランダに下りてしまったのだという。
 そっかと納得すればホークスは「なんでそんな安心したような顔するの」と言った。

「だって、何でベランダにいるのかなぁって不思議に思ってたから」
「でも、納得しちゃダメでしょ。ベランダって……これ、犯罪じゃん。通報されたらアウトだよ」
「通報しないよ」
「他の人が見てたら通報される案件なんだよ。それに目が見えないんだから俺だって判断出来ないでしょ、鍵開けちゃダメだよ」
「わかるよ。だって彼女だもん」

 なにそれ、とホークスは泣きそうな声を出した。
 声と同じように、今のホークスも泣きそうな顔をしているのだろうか、なんて考えてしまう。

「ホークスの声を聞いたらね、わかったの。そうしたら考えるよりも先に体が動いてた」
「……」

 明るく言ってみせれば、ホークスは私の手を取ってぎゅっと握った。本当は会うつもりはなかったと、ぼそりと呟いて。

「俺が来たら、名前ちゃんは困るから、だから本当は声を掛けるつもりなんてなかったのに……それでも、名前ちゃんの不安そうな顔を見たら居ても立っても居られなかった」

 そう言いながら体を引き寄せられる。ホークスの髪が頬をかすって少しくすぐったい。
 ホークスはヒーローだもんねと頭を撫でれば、手を強く握られた。
 考えるよりも先に体が動いていた――トップヒーローによって語られるこの言葉を思い出しながら、ホークスならそうするだろうと納得の気持ちを抱く。

「名前ちゃんも、ヒーローだよ」
「え?」
「今日助けた小学生からしたら、ヒーロースーツを着ていなくても、紛れもなくあなたはヒーローだ」
「……本当?」
「うん」
「そっかぁ」

 ホークスの優しい声でそう言われ、私はほっと肩の力が抜けたようだった。自然と涙が溢れてくる。
 ホークスはきっと、私のことを守る対象として見ていると、そう思ったのはいつだったか。いつも必要以上に心配されているような気がして、けれども彼は私が元プロヒーローであることを知っていて――それがすごく、もどかしかった。確かにヴィランを倒すほどの力はないけれど、自分は守られるほど弱くはないと思っていた。けれどもトップヒーローである彼からしたら、確かに私は守る対象なのだ。大概の人が、守られる側になるのだけれど。
 だから、彼にヒーローだと言われて嬉しかった。漸く認められたような気がして、言ってほしかった言葉を貰えて、涙が止まらない。

「ありがとう」

 欲しかった言葉を言ってくれたことも、今日来てくれたことも、本当に嬉しかったのだ。
 本当は会うつもりはなかったと言ったホークスのこの選択が、どうか彼の後悔に繋がらなければいい。そういった気持ちでホークスに礼を言えば、彼は何も言わず私の頭をゆっくりと撫でた。


   〇


 机の上に乗っている総菜パンを見て、俺が何か作ろうかと言えば名前ちゃんは興奮したように「ホークス料理出来るの!?」と言った。一人暮らしですので、と冗談めかして言えば、気持ちは既に夕飯モードなのか「パンは明日の朝食にする」と宣言して彼女は笑った。


「――お前がいつか言ったんじゃないか、人々を先導するヒーローたる姿を見て興味を惹かれたと。名字名前は紛れもなくヒーローとして生きる人間だ」

 今名前ちゃんを訪ねたら、迷惑を掛けることになる。
 名前ちゃんの話をエンデヴァーさんから聞いて、下種な記者に見つかったら、熱狂的な俺のファンに見つかったら、なんて誤魔化すように言えばエンデヴァーさんは呆れたような顔をしてそう言った。
 あいつはそんな軟弱な人間じゃないと、エンデヴァーさんは自信を持って言っているようだった。監視されているから彼女の家に行くのは避けたい――なんて本当の気持ちを言えるはずはないけれど、エンデヴァーさんのその一片の揺らぎの無い言葉は、名字名前というヒーローと一緒に街を守っていた時間があったからこそ言えるもののように思えた。
 それが、羨ましいと思った。
 ヒーローを辞めてしまった彼女と再会した俺は、知らないうちに彼女を守るべき対象として見ていたのかもしれない。俺が守ってあげなきゃなんて、本当はそんな必要なかったのかもしれないけれど――

「――名前ちゃんも、ヒーローだよ」

 その言葉に花が咲いたような笑顔をさせて泣いた彼女の表情を、決して忘れないようにと願いながら照れたように俺から親子丼を食べさせられる彼女を見る。
 溢さないように、と押し切るように俺が差し出した蓮華に口を付ける名前ちゃんを見ながら、やっぱり悪い男に騙されやいすタイプなんじゃないだろうかと彼女の未来を心配する。
 料理している音を聞きながら「見られないのが残念だな」と言った彼女に、本当の彼氏だったら「いつでも見られるでしょ」なんて言えるんだろうかと一瞬考えて、止めた。

20210222

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