06


ネズミはすっと息を吸った。灰色の目を細める。形の良い薄い唇が軽く開かれる。
歌声が静かに、しかし確かな響きを持って流れ出した。

私を恨み咲く花よ
あなたが描いた夢よ 
今この胸に飾るは
愛をつづる紙

神も私を見放したか
ついに私は黄泉のくに
争いひとつ起こらない
永遠の楽園


それはまるで、女性の声だった。深く魅惑的な、大人の声。そしてその旋律は高く低くうねり、男を絡めとる。

私を恨み咲いた花よ
あなたの想いは幾億年
愛を知ったかぶり
無能の悲しい現実

私が想い描いた夢よ
今はもう何もない
あなたを想うと胸が潰れる
私はただの…

歌声はふっと途切れた。空気に吸い込まれるようにして、旋律は終わる。絡みがゆるやかに解けていく。
しかし、空気の振動が終わってなお、歌声は頭の中で、心の中で響き続けていた。

支配人は酔っていた。ネズミの歌声に、その魅惑の空気に、酔っていた。しばらく全身が痺れ、口もきけなかった。

「少し、毒気が強かったかな。耐性のないおっさんを酔わせちまった」

ふふっとネズミは静かに笑った。

「じゃあもう一曲、魔法を解く呪文を唱えて差し上げましょう」

あなたの為に歌って
この気持ちを伝えたい

その瞬間に歌は生まれる
癒された心に生まれ変わる


今度は、さらりとした爽やかな声色だった。純真な少女のような、無垢な少年のような。
その歌声は絡みついてはこない。するりと撫でて、通りすぎていく。

何があったか知らないけれど
もう涙を拭いてください
我はあなたを心の底で
永遠に想っているから

あなたの為に歌を捧げて
至らない我は懸命に
あなたと共にいる幸せを
噛みしめている


歌声の余韻が消え去っても、支配人はずっと呆けたように黙っていた。ネズミも喋らなかった。
しばらくして支配人はようやく口を開いた。

「これは、驚いた」
「当然」
「一曲目にも痺れたが、二曲目にはもっと驚いた」
「へぇ?」

ネズミは片方の眉をわずかに上げる。

「そりゃ、どうして」
「だっておまえ、本性と全然違う純真無垢な歌を、よく歌えたな。演技力も抜群だ」
「誉めてんの、けなしてんの」
「誉めてるさ。で、なんて曲なんだ」
「一曲目はキャンパス。二曲目は我」
「作曲者は?」
「おれ」
「え?」
「さっきの二曲とも、即興。戯曲なんてひとつも知らない」
「そんな、まさか」
「おれ、嘘はつかないぜ」

即興であんな素晴らしい歌が紡げるものなのか。
感嘆や賞賛を通り越し、ここまで来るとただただ唖然とするしかない。

「…すごいな」
「それは、どうも」
「しかし、な、イヴ。戯曲をひとつも知らないというのは、役者としては失格だ」
「だろうね」
「図書館だ。図書館がある。上流の方だ。あの辺りはしばらく前に廃墟になって以来、復興はされていない」
「図書館?」
「そうだ、その図書館の地下に書庫がある。その図書館に昔住み込みの司書がいた。地下の書庫で暮らせるようになっているはずだ」
「おっさん、もっと筋道立てて話してくれない。おれにそこに住めっての?それとも通えって?」
「そこに住め。いくらでも戯曲が読めるだろう。そして、覚えるんだ」
「ふうん、了解。で、まずは何をして働いたらいいわけ?ストリートでも何でもやるぜ」
「そうだ、そうしよう。まずはイヴが客の呼び込みをすればいい。繁盛すれば、いなくなった役者たちも戻ってくるはずだ」

支配人は未来への期待に、久しぶりに笑顔になった。


|


←novel
←top





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -