05
シャワーから出ると、芳ばしい香りがした。飯の匂い。 台所で少年が何か作っているのだろう。
「何してるんだ」 「見ての通りだろう。ブランチ。腹が減った」 「私のは」 「ついでに作ってる」 「私の食料だろうが」 「裕福なんだな、おっさん。今この時期に冷蔵庫に食料があるなんて」
少年はスクランブルエッグと炒めものを皿に盛る。男はパンとバターを出してきた。
「つべこべ言うと食わさんぞ」
男の言葉をさらりと流し、少年は食事を始める。仕方なく男も箸をとる。
「思うんだけど」
しばらくして少年がおもむろに口を開いた。
「あんたに『私』ってなんか不自然」 「は?」 「ま、別に、今不自然でもこれから『私』って一人称に相応しいようになるならいいか。むしろ、なってもらわなきゃ雇われ者は困る」 「馬鹿にしてるのか」 「そんなつもりはなかったけど?」
少年はしれっと答える。
「…そういやおまえ、名前は」 「さあ。あんたに名乗る気はない」 「じゃ、あだ名でも何でもいい。なんて呼ばれてきたんだ」 「ネズミ」 「…ネズミ?」 「そ。素敵だろ」 「なんでそんな名前…」
チチッ。鳴き声がした。少年の肩に小ネズミが数匹駆け上がる。赤く光る双眸が数組、男を見つめる。
「おれの仲間がネズミだから」
小ネズミは少年の肩から降りてきてテーブルを走り、少年の投げるパン屑を食べる。 男はそれを凝視する。
「まさか、こいつらが怖い?」
少年は小首を傾げて聞いてくる。
「安心しなよ、おっさん。こいつらは賢い。いきなり襲いかかったりはしないさ。それに、おれの小ネズミたちは食料を食い荒らす事もしない。礼儀正しいんだよ、主人に似てね」 「主人は無礼者だろう」 「そうかな?おっさんを殺さなかったのに?」 「え?」 「昨夜、あんたを殺ろうと思えば殺れたんだぜ。忘れたのかよ」
ふふんと笑う。 こいつは本当に冷笑や嘲笑といった笑みが得意だな。またひとつ溜め息が漏れる。
「そうだったな。しかしおまえを『ネズミ』と呼ぶには違和感がある」 「そうか?」 「少なくとも、私はそう思う」 「じゃっ、あんたが付けたら」 「名前を?」 「名付け親に指名してやってんだ、ありがたく思え」 「おまえはその減らず口をなんとかしろ」 「性分なもので」
少年は微笑みながら小ネズミの耳の裏を掻いてやっている。その姿だけを見れば、きれいだ。喋りさえしなければ。 ふと思いつく。
「イヴ・サン=ローラン」 「あ?誰それ」 「フランスのファッションブランドの名前」 「おれにそいつの名前使えっての?」 「なかなかいい名前じゃないか」 「イヴだけでいい。長ったらしい名前は好きじゃない」 「おまえの名前だ、勝手にしろ」 「おっさんは?」 「は?」 「名乗らないの?それともずっと『おっさん』って呼ばれたい?」 「支配人、とでも呼べ」 「本名教えてくれないんだ?人には根掘り葉掘り聞くくせに」 「礼儀には反してない。おまえも本名は名乗ってないだろう、イヴ」 「まぁそうかな」
少年は意外に素直に頷いた。 男はふと机の上に置かれたものに目を留める。昨日まではなかった。自分のものではない…ということは、少年の持ち物か。
「…救急ケース?」 「パンドラの箱」
冗談は聞き流す。
「おまえのものか?」 「もちろん」 「なんでそんなもの持ってるんだ」 「クロノスの住人にもらった。同い年の、少し変わった奴に」
これには一応質問してみる。
「冗談だよな」 「いや、事実だけど?」
少年の表情からは何も読み取れない。
「同い年って…おまえいくつだ」 「十二」 「…ガキだな」 「ガキで結構。おかげさまで、ショタ好みのお姉さん客も取れますよ、男性客だけじゃなく」 「そうか」 「あ、言い忘れてたけど、役者もできるから」 「へぇ」 「できれば有名なオペラ座かなんかで雇ってほしかったんだけど。でも残念ながらここでは公演しないだろうから」 「ほぉ?じゃあひとつ、歌ってもらおうか」
少年はにやりと笑った。
「いくらくれる?」 「馬鹿か」 「じゃっ、歌わない」 「今日、夕食も食わしてやる」
ふーん、と少年は目を細めた。
「ま、最初だし、発声もしてないし、それでいいや」
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