07


ネズミは部屋に戻るなり、ぼすん、と音を立てて紫苑のベッドにダイブした。

「…ネズミ、そこ、ぼくのベッドなんだけど」
「そんなの、知ってる」

大の字になって紫苑のベッドを占領して、ネズミは満足げに笑った。
反対に紫苑は今日何度目か分からないため息をつき、食事のために中断していた部屋の片付けを始める。
ごろりと寝返りを打って仰向けになったネズミは、目を閉じたまま小さく、紫苑、と呟いた。

「うん?なに、ネズミ」
「楽しかったよ…紫苑。地声で喋ったのなんて、いつぶりだろう。それに、こんなに自由に過ごしたの、初めてかも」
「…そうなんだ」
「なあ、また遊びに来ていいか」
「あ…ああ。もちろん。いつでも来いよ」
「ありがと…」

それは、傲岸不遜なネズミが初めて口にした謝礼の言葉だった。
紫苑は少なからず驚き、部屋を片付ける手を休めてネズミの方を振り向く。

しかしもうすでにネズミは、安らかな寝息をたてて寝入っていた。

「ちょっと、おい、ネズミ。掛け布団の上で寝るなよ、風邪ひくよ。ネズミ、ネズミってば」

慌てた紫苑が肩を揺すっても、深く眠ったネズミは一向に目覚めなかった。よほど疲れていたのだろう。
紫苑はネズミを起こすことは諦め、押し入れから掛け布団をもう一枚引っ張り出してきてネズミにかけてやる。
それから紫苑も、ネズミが大部分を占めたベッドの隅で小さくなって眠りについた。


翌朝、目覚めるとネズミは消えていた。
あれから毎朝、山勢という名のサラリーマン風の男の人が火藍の店のパンを買いに来てくれるようになったらしい。物腰の柔らかで、いつも感じの良い笑みを絶やさない彼は──紫苑の記憶が正しければ──イヴのマネージャーのはずだ。おそらく彼は我が儘なイヴのために、朝早くから起き出して地味な背広を着こみ、律儀に毎日小さなパン屋に通って来てくれているのだろう。
夕食の席での「毎朝でも買いに来ます」という言葉を、ネズミは違えなかったらしい。
そうとは知らない火藍は、素敵なお得意様が増えたわ、と喜んでいた。

夢かと思うような、不思議な嵐の日は、紫苑の記憶に強く残り、根を張った。
だが日常生活を送っていくうちに、その現実味は徐々に、しかし確実に薄れていった。
忘却、それは人の本質のひとつであり、仕方のないことだ。全てを覚えていては過去のしがらみにがんじがらめになって、少しも動けなくなってしまう。むしろ、忘れることができるからこそ、人は人として前に進める。

いつしか紫苑は、もう二度と生身のイヴであるネズミに会うことはあるまいと諦めるようになっていた。


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