08
月日は移ろい、暦はかわった。 今月は、イヴのシングルが新しくリリースされる月だ。 予約の受付が開始される日を心待ちにしていた紫苑に、一本の電話がかかってきた。
「紫苑、紫苑、降りてきなさい」 「え、なに、母さん」 「電話よ」
階下から呼ばれ、階段を降りていく。 なんで、店の電話にぼく宛の電話が?
首を傾げながら、火藍から受話器を受け取る。 だが、そこから聞こえてきた声は、紫苑が予想だにしていなかった人のものだった。
『ひさしぶり、紫苑』
驚きのあまり、受話器を取り落としそうになる。慌ててそれを両手でしっかりと掴んで自分の耳に押し当て、紫苑は緊張で震える声を絞り出す。
「ネ…ズミ」 『ご名答。良かった、おれの声覚えててくれたんだ』 「あ、当たり前だろ、忘れるはずないよ」
そう言うと、電話口の向こうで声をしのばせてくすくすと笑う気配があった。 ああ、電波に乗って届いてくる、その声さえもが例えようもなく美しい。 それを、どうして忘れることができよう。
「あっ、ネズミ…あの、今大丈夫なの?仕事は…」 『あ、いいのいいの、休憩中だから』 「そう…なんだ。でもなんで急に…」 『あんたの携帯番号とかアドレスとか聞くの忘れちゃってさ。で、さっきやっと、店にかけたらいいんだって、ひらめいたわけ』 「あ…そう」 『なんだよ、冷たいな。もっと喜んだら?』 「う、嬉しい、嬉しいよ。感激しすぎて言葉がないんだ」
ふはははは、と今度は豪快な笑い声が受話器から響いてくる。
『あんた、変わらないな。安心した』 「そうかな」 『そうさ。あ、言い忘れてたけど、今月のおれのシングル、発売延期になるから』 「えっ」 『急遽、もう一曲新しいの入れることになったんだよね』 「へぇ!」 『だけど、あんた、CDの予約はするなよ』 「え…なんで」 『いいから、予約するな、絶対だぞ。言いたかったのは、そんだけ。じゃっ、またな』 「え、ちょっ…、ネズ──」
訳も分からないまま、通話は唐突にぷつりと切られた。 受話器からは、無機質な音が断続的に流れているのみだ。 通信の切られた受話器を見つめ、紫苑は途方に暮れるしかなかった。
だがその疑問は、この後すぐに解消されることとなる。
紫苑、紫苑、お客さまよ、降りてらっしゃい
え?だれ?
よくうちのパンを買ってくださっている山勢さんがいらしてるの。あなたに伝言とお届け物があるんですって
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