船長が記憶喪失になって戻ってきた、という現実を船員たちは割かし素早く受け入れた。というか、呆然としている暇なんてなかったというのが本当のところのようだ。
人の動かし方、船の動かし方を俺が憶えていたのも幸いだろう。個人個人の名前は憶えていなくても、動かすべき役職さえ解ればとりあえず体裁は保っていられる。
元々が陽気な船乗りたちの中には、この現状を面白がる者まで出始めた。本人にとってはちっとも面白くないのだが。
面白くないのはイドルフリートも同様のようだ。わざと俺とすれ違うように行動しているのか、この三日間顔も見ていない。ベルナールに聞いても言葉を濁すだけで何も教えてくれようとはしなかった。
そういうことが続くうちに、だんだん俺は苛々してきた。多分彼は、唯単に見知らぬ他人に対してもそういう態度を取る訳ではないのだ。俺がエルナン・コルテスとしての記憶を失くしたからこそ怒っている。それは“俺”の責任ではないのにだ。
そんな折、漸くイドルフリートを船内で捕まえることに成功した。
急ぎ足で行き来するイドルフリートの背後から肩を捕まえる。振り向いた瞬間は目を見開いていたが、俺だとわかると途端に眉根を寄せた。
「……なんだい」
「お前、俺の事避けてるだろ」
「何のことだか。私は記憶を遠くに吹っ飛ばしてしまった船長殿の代わりに仕事をこなしているだけさ。わかったら離してくれないかな」
「そっか。そりゃご苦労さん。でもその仕事の報告は船長にするべきじゃないか?」
「君が、船長だと?」
わざとらしく眉を上げたイドルフリートに少し顔が熱くなりながらもぐっと耐える。此処で怒ったらイドルフリートの思うつぼだろう。
「そうだよ。お前ばっかりに任せておくわけにはいかねえだろ。知恵ぐらいなら出してやれるから」
「結構だ」
「お前の事が、心配なんだよ」
「君に心配してもらう謂れはっ……」
「もっと俺の事を頼れよ、大丈夫だから」
そういった瞬間、不意に彼の強張っていた肩から力が抜けた。ぎっと睨み付けていた目が伏せられ、突然の事に戸惑う。何回か瞬きした後もう一度開かれた目は俺を見はしたが、其処にさっきまでの力強さはなかった。
「……考えておくよ」
そう言うとそっと身体を捻って俺の手を振り払った。
「おい、」
「大丈夫だよ」
薄暗い船内では、一歩離れたイドルフリートの瞳を読むことはできなかった。
「大丈夫さ」
「将軍!」
それから三、四日は経っただろうか。姿の見えないイドルフリートを探して俺は船内をうろついていた。判断能力こそ残っているものの、記憶の無い中ではどうしていいか困ってしまう物があったのだ。あの一件以来、イドルフリートとは付かず離れずの関係を続けていた。それまでは一方的に避けられていたのだからそれに比べたら随分な進歩だろう。
船員たちはとりあえず俺の事を将軍と呼んでいる様だ。将軍は今将軍じゃないけど名前で呼ぶのってどうなの? という会議が船底で行われていたことをベルナールからこっそり聞かされた。仲のいいことだ。
「……おう」
「将軍、今晩お暇ですか?」
「ああ、今イドルフリートを探してるんだが、それが終わったら多分な」
「そうですか! あの、今日ちょっとした宴会するんですよ。賭けに負けたやつらに酒買ってこさせて。将軍もどうです?」
「、いいのか?」
「当たり前ですよ。記憶がすっぽ抜けてるならなおさら、俺達の名前も憶えてもらわなきゃっす。ああ、どうせならイドさんも呼んで」
「イドさんなら今日は予定が入ってますよ。貴族同士の夜会に出席です」
船員が俺の背中を叩いた所でベルナールが顔を出した。彼は彼で仕事をこなしている様だ。慌てて船員が姿勢を正す。
「予定?」
「はい。元々はコルテスさんが出席するはずだったんですが、まあ無理ですよね」
「……そうだな」
「それでイドさんが代わりに。あの人なら大体の方の顔と名前が一致するそうですし。ばれないように上手くやるさ、なんて言ってましたけど」
俺は聞いていない。あれから仕事上の事ならほぼ教えてくれるようになっていたのだが、そんな大切な用事を伝えられていなかったのか。少し胸に靄が溜まるも、ベルナールの諌めるような視線と目が合った。あまり責めないであげて下さい、だろう。
「イドさんは来れないんですね……じゃあベルナールさんはいかがです?」
隣で船員があっけからんと言う。ベルナールは少し瞬きを繰り返した後、僕は遠慮しておきますと言った。彼にはまだ仕事が残っているらしい。
「悪いな、俺ばっかり」
「いいんですよ。コルテスさんだって、今は状況に慣れる方が先決でしょう。その書類も、イドさんがいないと何もできないんでしょう。僕が預かっておきます」
「……悪いな」
「構いませんって」
そういうと俺の手から紙の束を抜き取る。びっくりするほど滑らかな動作で、実は記憶を失くす前も同じようにされていたのかもしれなかった。
「将軍! 将軍も賭けに参加します?」
「賭けって、何やるつもりなんだ?」
「一応船内での博打は禁止の筈なんですけどね……」
その日、イドルフリートが帰ってきたのは日付が回ってからだった。
アルコールに弱い(と言っても並から見れば十分強い)船員たちから順番に倒れはじめ、まだ理性の残っている奴らは一人二人と寝床へ帰っていった頃。
誰かが嘔吐したのをきっかけに、大部屋には饐えた匂いが充満していた。貰いゲロというやつだ。誰が掃除するのか憂鬱になりながら、俺は一人の船員の背中を擦っていた。
「おいペドロ、大丈夫かよ」
「随分……良くなって……あれ、イドさん」
息も絶え絶えに顔を上げた彼は俺の背後に人影を認め、また屈みこんでゲーゲーやりだした。それに少し距離を置きながら、俺も背後を振り向く。
「イド、帰ったのか」
「……この惨状はなんだい」
「見ての通りだ」
見ると、外は雨だったのか彼のコートはぐしょぐしょに濡れていた。髪も色を濃くしている。こんな場所に居ると匂いが染み付いてしまうかもしれないと妙なことを考えた。
イドルフリートは眉を顰め、汚物でも見るかのようにペドロを見ている。いや実際汚物に近い何かではあるが。
「コルテス、ちょっといいかい」
「ん、ちょっと待ってくれ……おいペドロ、お前いい加減にしろよ」
「将軍行っちゃうんですかぁ」
「こっちも手伝ってくださいよ」
「悪いな……って、おい、どうしたイドルフリート!」
追いすがる屍人共と看病に追い回されてる酔っ払いをあしらっていると、突然イドルフリートに手首を掴まれた。強い力で引っ張られ思わず立ち上がる。
「なあ、おい!」
一体彼のたくましいとは言い難い身体の何処からこんな力が出るのだろう。酔っぱらっているとはいえ、イドルフリートの気迫は有無を言わせないものだった。喧騒と明りが遠くなっていく。
ぐいぐいと引っ張られ連れてこられたのはまだ入った事のない部屋だった。簡素な寝台と記憶が残っていたって俺にはどう使うのか見当もつかない器械が無造作に置かれた机から判断すると、恐らくイドルフリートの私室だろうと思う。
突き飛ばす様に押し込まれ、イドルフリートが後ろ手で鍵をかけた。彼の長い前髪が邪魔をして表情が見えない。どうしたのか。なにか、気に障る様な事を――
「お前は、船長だろう!」
彼の怒鳴り声は怒りよりも苦痛の色の方が濃かった。どうしてそんな声になるのだろう。まるで俺が加害者のようではないか。
「解っているのか、君が馴れ合ったとしても彼らの職務は変わらないんだ」
「……どういう意味かわかんねえが」
「君がいくら目を掛けたとしても彼らの運命は変わらない。彼らはただの水夫であり、兵士であり、駒なんだ。わかってるだろう」
「何を、」
「いずれ死ぬ者に心を砕いてどうするんだ! 以前の君は割り切って付き合っていたじゃないか、なんで――」
「おい」
彼の声が途切れた。切ったのは俺だ。
胸倉を掴むと彼の身体はあっけない程簡単に持ち上がった。イドルフリートの眉間の皺が更に深くなる。
「どういう意味だよ、それ」
「その通りの意味だよ。解らないのかい」
「どうせ死ぬんだから人間扱いするなって言いてえのか」
「その通りだろう! 以前の君ならそうだったはずだ!」
「黙れ!!」
ドン、という音とともにイドルフリートが顔を歪めた。ドアに押し付けられたまま、それでも爪を立ててくる。彼の目は敵意ではなかった。
何を、何でそんなかなしい顔をしているのだろう。
「どうして、解らないんだ……」
悔しそうな目で唇を噛む彼から、無性に目を背けたくなった。
「……俺は、奴らを駒だなんて考えない。記憶が失くなる前の俺がどうだったとしても、俺は、そうは考えねえよ」
そういうと俺は手を離した。解放された彼は乱れた襟元を抑えて俯く。口元がわなないているのが見えた。今更ながら、彼の髪が濡れたままなのを思いだす。彼は、酷く寒そうだった。
俺から顔を背け、扉の鍵を外して退いた。俺が扉を開けて閉じるまで、彼はそうしていた。
もう一度彼と話し合おうとは思えなかった。何故か、臓腑が酷く冷たかった。
それから俺は、徹底的にイドルフリートを避けた。
最低限の仕事上の付き合いに抑え、それすらも可能ならばベルナールを仲介した。ベルナールは何か言いたげだったが、無言で書類を突きだせば何も言わずに受け取った。
彼の考え方がさっぱり理解できない。彼が何を思ってあんなことを言ったのか、どうしてあんなに俺を責めるような目をしたのか。
そんなことを言っても、狭い船内ですれ違う機会は多々ある。イドルフリートと違って下手に街に出て以前の知り合いに見つかってしまっては困るからだ。その度イドルフリートは怒った様な縋る様な瞳をするが、それすらも気づかないふりをする。俺の知らないエルナン・コルテスを押しつけられそうになる度酷く苛々した。
酔っぱらっていた船員はあの時のことをほぼ憶えていないようだったが、それだってすれ違っても視線すら交わさない俺たちの事を不審に思い始めた。どうかしたんですか、と面と向かって聞かれたこともある。その度に俺は首を振って答えた。俺がどうかしたんじゃない、イドルフリートが一方的に怒っているだけなのだ。
当のイドルフリートは心配している船員に酷く冷たかった。彼が声を荒げるのを遠くから目撃したこともある。理不尽な怒りを浴びた水夫は「なんか苛々することでもあったんでしょうかね」なんて笑ってはいたが。
イドルフリートは航海士だ。船を操り、命を導く役割であるはずの職務に、彼が値するとは到底思えなかった。以前の俺は何を思ってこんなやつを雇っていたのか。少なくとも、俺なら――
「……コルテス、入るぞ」
ある夜、ノックの音と共に自室の扉が開かれた。滑り込んできた金色に身を固くする。返事をする間もない。どうせそれを狙ったのだろうが。
俺自身はなるべく彼に会わないように過ごしてきたが、彼の方から仕事の用事で訪ねられれば上手く断ることはできない。
「次の船に積む荷物の手配だ。目を通して、此処にサインを」
「わかった」
「……なあ、何か思い出したか」
「何をだ」
わざと大きな音を立てて書類を机に叩き付ける。イドルフリートの方が揺れたのが見えた。
「……記憶は戻ってきたのか?」
「さっぱりだな」
「思い出そうという努力は、」
「お前は!」
束ねた紙の上から拳を叩き付ける。厚い書類の上の手がじんと痺れた。
「お前は俺の記憶が戻ってほしいんじゃない、以前の俺が帰ってきてほしいんだろう? 他人を駒扱いする人道を外れた獣に」
「、何を!」
「そうだよなあ、俺の記憶がなくなったばっかりに迷惑をかけ続けて悪いとは思ってるさ。だからって、俺は平気で仲間を見捨てられるような悪魔に成り下がるつもりはないんでな」
「コル、テ」
「大海原に繰り出せば、俺達は助け合わなければ生き延びることすら儘ならない。船長も航海士も同様にだ。その仲間と絆を深めあうことがどうしていけない? なあ、記憶を失くしてしまったせいで、俺は間違ったことを言っているのか?」
「……」
「なあ、答えろよ!」
イドルフリートは唇を噛んだまま何も答えない。親からの叱責に怯える子供のようで、まるで俺が加害者であるかのような錯覚に陥りそうになる。
彼はしばらく視線を彷徨わせたまま、何かを言おうとして唇を開いたまま逡巡していた。この後につけて言い訳でもする気なのかと考えていると、締め切られた扉が慌ただしく叩かれた。
「コルテスさん! なにかあったんですか」
扉を開いたのはベルナールだった。俺の怒鳴り声を聞きつけたのだろう。彼の背後にもちらほらと集まってきた船員の姿が見える。
向かい合った俺とイドルフリートの温度差に一目見ただけで状況を把握したらしい。ベルナールが責めるような目を向けてきたが俺は無視した。
周りの奴らはよく呑み込めないのかうろうろとこちらを覗き込んでくる。
「将軍、どうしたんですか」
「イドさんと喧嘩でもしたんですか」
口々に言い合う船員達は不可解だとでも言いたげな目で視線を交わしていた。将軍らしくもない、という声も聞こえてくる。
以前のイドルフリートと仲が良かったという自分と比べられている様で、目の前が朱く染まった。
彼らは以前の俺を慕っていたのだろうか。自分達のことを駒扱いするような船長を。何も聞かされていない頃なら何も思わなかっただろうが、イドルフリートから聞いた後では最低としか思えなかった。
赤く染まった思考はぐるぐると深い所へ落ちていく。彼らを騙して生死を賭ける戦場に連れて行く怒りは全て、すぐ隣で俯いているイドルフリートへ向けられた。
「ベルナール」
「……なんですか」
「こいつを、船から降ろせ」
ざわり、と周りが揺れる。突然の事に、船員だけでなくベルナールまで驚いた顔をした。
「コルテスさん、彼は優秀な航海士です! 一体何を言いだすんですか」
「考え方の不一致、ってやつだ」
「なにを……!」
「船長が決めたなら、そういうことだろう」
今まで口を閉ざしていたイドルフリートがゆるりと顔をあげた。もう既にどんな表情も浮かんでいない彼の瞳はただ暗かった。
「イドさんまで何を言っているんです!」
「別に、私なら再就職先には困らないさ」
「そういうことを言っているんじゃありません……!」
「……撤回は、しないんだろう」
イドルフリートは振り返りもしなかった。感情を削ぎ落としきった彼の声音は硬い。全てを諦めたことを隠すような声だった。
「……この部屋の備品はどうせこの船のものさ。私個人の持ち物はないから、後で捨てるなり売るなりしてくれ給え」
邪魔だ、とイドルフリートが押しのけるとすぐに人ごみが割れた。その中を歩き去って行く彼の背中を見送ることすらしたくなくて目をそらす。
「そういうことだ。お前らはもう仕事が無いなら寝た方がいいんじゃないか?」
ほらほら、と腕を振ると船員たちは訝しげな顔で退散した。唯一残ったベルナールは今にも躍りかかってきそうな目で俺をにらんでいる。
「……コルテスさん」
「なんだ」
「貴方が、記憶を失くしていなかったなら絶対殴っていました」
「怪我の功名だな」
そう皮肉ると、ベルナールはぎっと目を逸らした。それ以上目を合わせていると、自分の衝動が抑えられないとでも言うように。
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