朝目が覚めると、イドルフリートはもういなかった。当たり前だ、昨夜着の身着のまま飛び出していったのだから。
 一晩寝ると流石に頭も冷えて物事を客観的に見ることができるようになってきた。彼の傷付いた表情も。
 かつての自分ととても仲が良かったというイドルフリートに俺が酷くきついことを言ってしまったということも。
 記憶を失くしても船乗りの性か、ようやく朝日が昇り始めた窓をぼうっと眺めていると、ドアがゆっくりと二回叩かれた。
 「……コルテスさん」
 「ベルナールか。入っていいぞ」
 覗き込んだベルナールの顔には隈があったが、昨夜の憤怒はさすがに残っていなかった。彼もまた後悔しているようだった。深酒をした次の日のようだ。
 「……イドさんは」
 「さあな」
 「……コルテスさん、貴方とイドさんの間に何かあったのかはよくわかりません。以前のコルテスさんではないのだから、そのままイドさんと仲良くしてほしいと言える訳ではないこともわかってます。けど実際、この船からは筆頭航海士がいなくなってしまいました」
 「ああ」
 「貴方にとっての印象は抜きにして、彼は天才的な航海士でした。彼を失うのは酷い痛手なんです」
 「……」
 「どうか、」
 「わかってるよ」
 重い身体を起こそうと腹筋に力を込める。重い身体とは裏腹に案外簡単に立ち上がれた。
 「イドルフリートは今何処に」
 「わかりません」
 「じゃあ彼が行きそうな所は」
 「……僕がわかる限りの所にはもう」
 「じゃあ、最後は俺頼みってことか」
 そうと言っても彼の居場所なんてさっぱりわからない。俺に記憶が残っていたなら何か手がかりがあったかもしれないが、今この瞬間記憶が全部蘇る可能性なんて望み薄だ。
 けれど、俺が、記憶を失くしたままの俺が彼を見つけてやらないといけない気がするのだ。俺は俺として、一つの自我なのだから。
 ベルナールがはっと瞬いたのを横目で見ながら、俺は滅多に広げない陸地の地図を探し始めた。



 三日探した。暇な船員どころか暇じゃない奴らまで総動員して、とにかく方々へ手を伸ばした。「素直じゃないっすね」なんてからかわれたりもしたが甘んじて受けた。見つかるまで一睡もしない覚悟だったが、さすがにそれはベルナールに止められた。
 それにしても見つからない。もしかしたら故郷に帰ってしまったのでは、と思ったがこの港から彼の国へは酷く遠い。目立つ金髪の彼が馬を借りた形跡も馬車に乗り込んだ形跡もなかった。それならば近くに居るはずなのに、さっぱり目撃情報が入ってこない。
 彼の淀んだ目を思いだして嫌でも焦燥感が増してくる。最悪の想像は頭を振って払った。彼に限って、と思いたい。いや、思わねばならない。とにもかくにも、彼を見つけ出すことが先決だった。
 「将軍!」
 どたどたと足音を鳴らして若い船員が駆け込んできた。徹夜こそしてないが寝不足で体調が悪いものの、これまでとは違う勢いにはっと顔をあげた。
 「この港から南東に十マイル程離れた酒場でイドさんらしき人を見たって人が……その人も伝聞なんですが、やたら顔のいい金髪の男が居たって話を聞いたらしくて、多分イドさんだろうって」
 「十マイル? どうやってそんなところまで……」
 「行ってみますか?」
 隣に居たベルナールが声をかける。俺はぐっと顎を引いた。
 「――馬を借りて来い」

 ついて来たがった船員たちを押しとどめて一人で馬を走らせる。どうしても、一対一で話し合わなければならなかった。
 イドルフリートは、一体何を溜め込んでいたのだろう。言いたい事を押し潰して、「馴れ合うな」とただ一言発した理由はなんだろう。
 ぐるぐると疑問だけが渦を巻いて、体の疲れも気にならなかった。まだ遅い気がして、全力で馬を駈る。びゅう、と風がないた。空気が渦巻いて割れる。
 気づいた時には目的地はもう目の前で、長時間疾走し続けた馬の方が疲弊していた。汗だくの馬身を軽く叩いて労わる。教えられた酒場は真夜中の暗闇の中で煌々と光っていた。
 光の洪水の中を覗き込んでも、残念ながら見慣れた金髪は見当たらなかった。こちらに気づいた店員を手でとどめて、外の暗がりに目を凝らす。あまり遠くには行ってないことを願って、馬を連れて歩き出した。



 三十分も歩いただろうか。濃い潮風が何処からか吹き渡ってきているのを辿ってふらふらと歩いていると街並みが途切れた。太い三日月が、木々の生い茂る丘を照らしている。ざあざあと葉がこすれる音に傍らの馬が身震いした。
 続いていく道を特に何も考えず登る。見晴らしのいい場所に行ったからといってイドルフリートが見つかるとは考えていなかった。ただ、石畳とは違う草のさくさくとした感触が心地よい。
 見上げた時の印象とは違い、さして高くない丘は簡単に登り切れた。疎らな木々の間を月光が照らしている。こちらの足音に、金髪が揺れた。
 「……イドルフリート」
 彼は振り返らなかった。ただ背が揺れただけだった。近づいて触れた肩は風で冷え切っていた。
 「……なんの用だい」
 「新しい職を探すんじゃなかったのか。こんなところに当てがあるなんてな」
 「別に、君には関係ないだろう」
 「そうか」
 じゃあ俺が何しても関係ないな、と隣に座り込む。馬は手綱を離しても大人しくしていてくれた。
 イドルフリートは木に凭れ掛かったまま彼方を見ている。暗くて良く見えないが、酷い隈があるのがわかった。
 しばらく沈黙が続いた。此処からは、眠りに落ちた街並みと点々と輝く酒場がよく見えた。良く晴れた空には星が輝いている。良い所だった。
 「……どうして」
 ようやく聞こえたイドルフリートの声は掠れていた。俺は敢えて何も言わず、言葉の続きを待つ。
 「どうして、此処が」
 「さあな。気がついたら此処に」
 「……思いだしたわけではないのか」
 「残念ながらな」
 そういうと、彼はまた口を閉ざした。時たま馬の小さな嘶きが聞こえる。
 「……悪かったよ」
 「何が」
 「でもお前の言い方も意地悪だったぞ。あんな風に言われれば反発されるだろ。馴れ合いは適度にしておかないと、いざ戦いになったとき辛いだろって。心配しているんだって、ちゃんと言わなきゃ伝わらねえよ」
 「知るか」
 「……イドルフリート」
 依然彼はこちらに目を向けてはくれなかった。気温はさほど低くないが、吹き抜ける風に首が晒されて寒そうに見えた。
 「寂しいよ」
 「……」
 「お前が、お前の顔をして、私のことなんか知らないのが、さみしい」
 「ああ」
 「……どうして、」
 ぼろり、とイドルフリートの目が水を零した。
 どうして思い当たってやれなかったのだろう。親友が記憶を失くしたら、辛いに決まっているだろう。ベルナールの再三の忠告を無視したのは他でも無い俺だったとあらためて気付かされる。
 彼が瞬きする度にぽろぽろと雫が流れる。濡れた頬が怒るでも恨むでもなく、ただただ寂しいと、そう言っていた。
 「――イド」
 その呼びかけにはっと彼がこちらを振り向いた。その少し開いた唇に強引に口付ける。
 久々に感じる彼の口内は、涙のしょっぱい味がした。


←2

back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -