不眠症は王子様を待つ




 宙を漂うような感覚が心地よい。頭の天辺からつま先までぬるま湯に浸かっているかのようだ。南の海の底に潜ったら、きっとこんな感じなのかもしれない。
 ふわふわと波に揺られ指を動かすことすら億劫だったけれど、何故だか左腕に感じるくすぐったさが気になる。起きなければならないかなあと薄らと意識を取り戻した瞬間、瞼の裏の薄明るさと酷い頭痛が俺を襲った。
 思わず指が跳ね、うめき声が上がる。一瞬の涙が出るほどの激痛と、その後を鈍痛が尾を引いて追ってくる。息が詰まりながらも助けを求めようと瞼をこじ開けると、カーテン越しの陽光に照らされた白い天井が視界に広がった。
 「……此処は」
 見覚えのない場所だった。寝台のすぐ横の窓からの太陽光は、そろそろ中天しようかという頃合いだ。
 この酷い頭痛からして、どうも昨晩は飲みすぎてしまったらしい。記憶が全く残らないほどに。それで行きずりの誰かに宿屋か何処かに放り込まれたのだろう。
 とにかくこの痛みをなんとかしようと辺りを見渡すと、忘れかけていた左腕のくすぐったさの原因を見つけた。
 長い金髪が緩やかな波を描いてベッドに伏せている。顔は見えないが、肩幅からして男だろう。ベッドサイドの椅子に座ったまま眠り込んでしまったらしい。その毛先が俺の腕をくすぐっていた。
 ぐっすりと眠りこんでいるらしく、俺が腕を動かしても反応が無い。だが、辺りに水差しの類がないため、喉の渇きを癒すには彼を起こすしかなさそうだ。俺を看病している間に眠ってしまったのなら申し訳ないが、この時刻だととっくに寝坊だろうから気にしないことにする。
 「おい、起きろって。なあ」
 片手で彼の肩を揺すると小さく呻く。押されるままにころりと転がって、ようやく薄目を開いた彼の顔を見て、俺は気づかれないよう息を呑んだ。
 陽に当たったことがなさそうなほど白い肌に、薄らと覗いた瞳は地中海の海の色。寝起きで惚けた様に開いた唇と白い歯の対比が鮮やかだ。顔が隠れている時点で男性だと見当を付けていたからよかったものの、突然現れたら女性だと見間違えるほどに、美しかった。
 彼はもう一度目を閉じて顔に纏わりつく金糸を振り払う。長い睫毛が影を落とす様さえ見えた気がしてこっそり溜息をついた。俺らしくもない。
 さっきよりは頭が回りだしたらしく、やっと俺に焦点を当てた彼はにこりと微笑んだ。それすらも計算されつくした角度で目眩がする。
 「やっと目が覚めたか」
 「ああ。悪い、此処は……」
 「まったく、船長とあろう者が道端で意識不明だと? 一体何をしていたというんだ。他の船員に示しが付かないだけならまだしも、皆お前を案じて仕事すら手に付いていなかったんだ。おかげで仕事が滞っているよ」
 「、は?」
 一瞬見えた儚げな笑みは幻想だったのか、孤を描いた唇からは怒涛の勢いで小言が漏れだした。よくもまあぺらぺらと口がまわるものだと感心する。というか、こいつは。
 「……なんだい」
 「……人違いじゃないか」
 「は?」
 「いや、悪いがまったく身に覚えがない。船長であった試しも、お前と知り合いで合ったことも無かったと思うんだが」
 「……いや、お前は意識のついでに冗談のセンスも落としてきてしまったのか」
 「俺は大真面目だが」
 にこりともせず言うと、にやにやと笑っていた彼は急に不安気な顔つきになって口をつぐんだ。何事か思案している様だ。困らせたのは悪いと思うが、俺だって嘘は言っていない。
 「……お前の名前は?」
 「俺か? 俺の、名、は」
 答えようと口を開いて、閉じた。言いたかった。彼とは赤の他人だということを証明した上で、看病の礼を述べにこやかに立ち去りたかった。
 口がわななく。冷や汗が背筋を伝う。俺の、俺の名前は。
 「……思いだせないのか」
 「まさ、か」
 「なあエルナン、面白い冗談だったよ。けれどさっさと起きてくれないと、夜会だって迫ってるんだ。わかってるだろう?」
 「だから、エルナンって誰だよ!!」
 怒鳴って右腕を寝台に叩きつける。腕の衝撃はベッドに吸い込まれたが、怒鳴り声は響き渡った。微かな耳鳴りと共に辺りに満ちた静寂に気まずげに眼を逸らす。視界の端に映った彼の呆然とした表情に少し胸が痛んだ。
 「エル、」
 「……悪い」
 「冗談では、ないのか」
 「多分な」
 「……冗談だったら後でマストの先端に逆さ吊りにしてセイレーンの嵐の中に突っ込んでやる」
 彼は笑おうとしたのか痛々しく口元を歪めた。俺も似たような表情だったと思う。信じられるわけないだろう。
 まさか、自分の記憶がざっくり抜け落ちているなんて。



 「名前は思いだせないんですね……。他の人の事もさっぱりわからない、と」
 「ああ」
 「船については? 作法や、異国のことは」
 「わかんねぇ、けどどうしても思いだせないって感じではない」
 「そうですか……」
 怒鳴り声を聞きつけて飛び込んできたのは黒髪で日に焼けた青年だった。鬼気迫る顔をして黙りこくっている俺達を見つけても、彼は冷静さを失わなかった。ひとまず硬直している金髪を椅子から立たせて自分が其処に座り、問診を始めたのはなかなか立派だと思う。
 「医者の見立てでは外傷は無かったんです。それでも三日意識が戻らなくて……。その時点である程度の覚悟はしていましたけれど」
 記憶喪失ですね、とさらりと告げられた単語にまた頭痛がひどくなったような気がした。記憶喪失。記憶を、失う。なるほどわかりやすい。
 傍らで聞いていた金髪の彼もその言葉を聞いて青褪めた。元々白かった肌が真っ白だ。俺より病人のようで心配になる。
 「こんな町医者じゃ記憶喪失なんて専門外でしょうね。うちの船医も。どうします?」
 「……立てるか」
 「ああ」
 真っ青な金髪の彼に促され床に足を付ける。そういえば俺は裸足だった。サンダルの類も用意されておらず、素足に冷えた床が冷たい。その感覚で少し頭が冴えた。
 「何処か痛むところは?」
 「頭痛がする、が耐えられないほどじゃない。他の所は何も」
 「恐らく一時的な物だと思うんです。生きることに必要なことは憶えているみたいですし、全部記憶を失ったまま別人として生きたなんて話は聞いたことがありませんから」
 「そうか」
 黒髪の言葉に頷いた彼は、じっと俺を見上げてきた。こうして立つと、俺の方が僅かばかり目線が高い。彼の翠の瞳が光を受けて煌めくのが見えた。が、相変わらず視線は戸惑っている。
 「この時期に船長が記憶喪失だと気付かれては不味いな。そもそも大切な時期なんだ。だから――」
 「いきなり言われても困るとは思います。ですが、ひとまず此処を出て船に戻るまでは何も無かったフリをして頂けませんか」
 「……つまり」
 「君は陽気に振舞っていればいい。街中で話しかけられたら適当に手を振ってい給え。私達が何とかしよう」
 黒髪の方によろしくお願いします、と頭を下げられては反論のしようもなかった。元はと言えば自分が記憶をどこかで落としてきたのが悪いような気もするし、彼らに任せておけばひとまず衣食住は安定しそうだという目論みもある。此処で「記憶が無いのなら赤の他人だ」と捨て置かれたらこの複雑な状況の中で途方にくれてしまっていただろう。
 だが、金髪の方はずっと俺の眼を見つめていた。いや、睨んでいた、の方が正しいのだろう。
 責める様なきつい瞳が俺を追いかけている。それは起きた直後の柔らかい視線とは似ても似つかなかった。百年の恨みが凝り固まったような、憤怒の焔が躍っている。
 暫く後、彼はずいぶん努力して俺から視線を逸らした。思わず止まっていた息を吐く。標本にされた甲虫のように、瞬き一つできなかった。
 「……もう出るんだろう。話を通してこよう」
 「あ、お願いします」
 と黒髪の方が声をかけた瞬間には既に彼は扉の外へ出ていた。ひらりと翻った金色の残像が消える間もなく勢いよく扉が閉まる。少し身じろぎした俺とは対照的に彼は平然としていた。いつもの事なのだろうか。
 「じゃあ着替えましょう。着方ぐらいは憶えてますよね?」
 「あ、ああ。えっと――」
 「僕はベルナール・ディアスです。貴方はエルナン・コルテス。将軍であり、僕らの船の船長でもあります」
 「……彼は」
 閉ざされた扉に目をやる。大きな音を立てたそれは無機質に外と内を隔絶していた。ベルナールもつられてそちらを見やる。
 「彼はイドルフリートです。イドルフリート・エーレンベルク。筆頭航海士です」



 用意された服はしっくりと肌になじんだ。そもそも俺の服だそうだから当たり前か。
 階下に降りると白衣を着た老医師が穏やかにこちらを振り返った。傍らには先程の……イドルフリートが立っている。医師が緩やかに頷いたので、話はついているようだった。
 「お加減は如何ですか」
 「……おかげさまで」
 「意識が戻らないのは心配でしたが、疲れが溜まっていたということでしたので。体が必要だと考えたのならそういうことなのでしょう」
 そういいながら白髭を撫でほっほっほと笑っている。なるほど、彼に記憶喪失をどうにかするのは無理だろう。
 隣のベルナールがお世話になりました、と頭を下げたので俺も軽くならう。医者はまだ何か話したそうな顔をしていたが、イドルフリートの「もういいだろう」という言葉に肩をすくめた。
 「本来なら、もう少し様子を見るべきなのですが……」
 「彼には仕事が溜まっているんだよアルツト。3日もベッドの上でサボっていたのでね!」
「……あまり無理はせん方がいいんじゃないかねぇ」
 そうはいかないんです、と俺が言うと医師はもう一度肩をすくめ、もう何も言わなかった。
 支払いは済ませたから、と医師と侍女に見送られて扉をくぐると、燦々と注ぐ日光が俺の眼を射した。
 隣でベルナールが「見覚えありますか」と耳打ちしてきたのを、首を振ることで応える。イドルフリートが小さく舌打ちしたのが聞こえた。
 「私は先に船に戻るよ。彼らに隠し通せることではあるまい」
 「そうですね。じゃあ僕らは其処らを見ながら帰ります。何かきっかけがあるかもしれない」
 「面倒な奴等には捕まらないでくれ給えよ」
 そう言い放ったイドルフリートは足早に駆け出すと、あっという間に人ごみに紛れて消えた。俺には目も合わせない態度に流石にムッとくる。
 「あまり怒らないであげて下さい。多分、あの人もどう接していいかわからないんですよ。お二人はすごく仲がよろしかったからその分戸惑いも大きいんです」
 「だからってなぁ……」
 「あの人だってわかってますよ。だから、それまであまり責めるようなことは言わないであげてくださいね」
 そう宥められては、俺も二の句が継げなかった。
 当然の様に、帰り道に俺の記憶に引っかかるものは見当たらなかった。


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