その背、泡沫が如くして


 澄み渡り広がる碧羅に、双刃の偃月刀を弾き飛ばす。回転しながら飛んだそれは、秋の強い陽光を反射して地に刺さった。偃月刀の持ち主は、やや駭愕を涼し気な双眸に示して、地面に突き刺さる己の得物を見つめている。

「――驚いた。随分腕を上げたようですね、司馬昭殿」

 鍛錬も勉強も、いつだって"めんどくせ"と言う割に。優し気に見える微笑の中に多少の揶揄を気取って、司馬昭は後頭部を掻いた。

「腕なんて上がってませんよ、子然殿」

 自分が上達したのではなく、琉漣の調子が悪かっただけのことだ。でなければ、自分がこの歴戦の武将相手に一本でもとれるものか。
 ――琉漣は、司馬昭と司馬師に幼い頃から武芸を教えてくれる師だった。それは司馬懿の推薦で、あの父親が推すだけあって、成る程人に教えるということがうまい。
 琉漣が司馬兄弟に教えるにあたって、司馬懿はそれはもう曹丕から埋もれるほどの嫌味を貰ったそうだった。曹丕の琉漣への執着は、並大抵のことではないように司馬昭は思う。
 それでも結局許可を貰えたのは、曹丕がそれなりに司馬懿を気に入っている、という証左なのだろう。
 以前から、魏軍の武将で最強を上げるのならば琉漣だ、という話は聞いていた。うわさ話程度だったから、どれだけ信用できたものかわからなかったが――指導を受けるようになって、琉漣の他者との手合わせを見るようになって、それが限りなく真実だと思い知らされた。
 そんな男に、ただでさえ癖も何もかも知られているのだから、若輩の司馬昭が勝てるはずがないのだ。

「一体、今日はどうなさったんですか。手合わせ中に上の空……なんて、普段の子然殿なら、曝さないでしょう。そんな醜態」
「……そうかもしれませんね」
「話す気、ないんですか、子然殿? さすがに師匠の様子がおかしいんだから、めんどくせ……は、休業ですって」
「あまり、人に話すようなことでもありませんよ」
「教え子の俺でも?」

 空気が重くならないよう、軽い調子で首を傾けた。――が、返ってきたのは一線引いたような、どこか冷たさを持つ微笑で、司馬昭は駭汗した。
 ぞくりとさせられる琉漣の表情に、けれど別に驚くこともないだろう、と冷静な部分が囁く。琉漣がこんな笑みを浮かべるのは、いつものことだ。曹丕や曹叡に向けるような、ほんとうに優しく柔らかい微笑など、向けてもらったためしがない。
 それは琉漣なりの区別なのだと、兄共々司馬昭は考えている。幼い頃から見てもらっているから、寂しさを感じないと言うと嘘になるけれど。

「……けれど、曹丕殿や曹叡殿に話すことでもありませんね」

 凍り付くような笑貌を溶かして、少し困ったように見える顔で琉漣は言った。

「夢を、見ただけですよ」
「夢?」

 司馬昭の反芻に、武器を抜き取ってから頷く琉漣は、どうやら気がかりを話してくれるらしい。

「どんな夢なんです? あの子然殿の心に、雲の上を歩かせてしまうのは」
「――……死んだ後の夢、ですよ」
「……死んだ後」

 少し間を置いて届けられた声は、心なしかいつもより頼りない。

「私が死んだ後の、周囲の反応です。私の墓はあるのですが、誰も私を知らなかった」
「それ……」
「別に、何百年も後の時代とかいうわけでは、ありませんでしたね。そんな人間はいただろうか、と。数日もしないうちに、誰の記憶からも私は消えていた」

 それは真実の死だ――と司馬昭は思う。生きていた痕跡だけが残り、思いも言葉も何もかもが人々から忘れ去られる。人の心に残る故人の姿が消え失せることこそ、本当に死を迎えるということだと。

「……でも、やっぱりらしくないですよ、子然殿。死んだ後の夢ったって、たかが夢でしょう。そんなもんに気を取られるなんて」
「そうでしょうね、特段気にするようなものでもありませんが……」

 秋空を見上げた琉漣は、そのまま口を噤んだ。次の言葉を探している様子もない。

「子然殿、昔の記憶がないって、父上から聞きましたけど」
「ええ」
「それが関係してるんですかね?」

 空から司馬昭に視線を移して、琉漣は意外なことを言われた風に目を瞬かせた。

「何故、そのように?」
「え、あ……何ででしょうね。何となく、なんですが」

 記憶がないから人の記憶に残らない、そんな馬鹿はないだろうに。どうしてか司馬昭には一瞬、それが正解のように感じられた。
 まさかこんな馬鹿げたことを理由にする訳にもいかず、慌てて取り繕う。いささか大袈裟に手を動かしてしまったから、取り繕ったことは気取られているだろう。
 くつり、と喉奥で笑った琉漣は、そのまま司馬昭に背を向けた。

「子然殿?」
「そろそろ、曹叡殿のところへ行く時間ですから。……今日は失礼をしました。また後日、きちんと手合わせをしましょう。今日のお詫びに、全力で相手をさせてもらいますよ」
「げっ……! 子然殿、それは勘弁……」

 手加減してもらっている今でさえ敵わないのだから、本気で来られたら半刻ももたないだろう。引き攣った笑みを浮かべるが、琉漣は構わずに屋内へ向かってしまった。

「マジかよ……――っ、え……?!」

 琉漣の、武人にしては細い背中が、一瞬透けたように見えた。それは本当に一瞬のことで、見間違いかと目を擦る。
 もう一度よく見た彼の背中は、きちんとそこにあって、廻廊を曲がっていった。ではやはり白昼夢か何かだ……と思い込ませるが、結局それはうまくいかなかった。

「……消えないでくださいよ、子然殿。そんなの、悲しむ人が沢山いるんです。なのに消えたことすら気付けなかったら、悲しむことすらできないんですから」

 琉漣の見た夢が現実に起こりえないようにと、縋るような願いを込めて、司馬昭は天を仰いだ。


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