赤壁幕間


 その日は、いやに頭痛が激しかった。
 夜明け前に覚醒してから絶えずじくじくと鈍い痛みが居座り、船上での戦が幕開けてからも、迷惑なほど存在を主張していた。

「……嫌な風が吹く」

 背後から緩やかに、自軍の背を撫でて行く風を受けて、琉漣は誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。

「そうかい? 強過ぎず弱過ぎず、いい具合の風だと思うがね」

 一歩半前に立っていた男は、遠くに聞こえる戦の声に負けてしまう程度の囁きを耳聡く聞き取ったらしく、わざわざ振り向いた。
 紫の布を頭に巻いたその胡散臭い男を、琉漣は暫時睨みつけて、顔を背けた。
 男は仕様がないといったふうに肩を竦め、また前を向いた。その背中を、琉漣はまた睨む。
 ――賈ク。あのとき宛城で曹操を炎に巻き、曹丕の身を危険に晒した厭わしい軍師である。後に張繍とともに帰順し、兵力不足に悩んでいた曹操はこれを迎えたが、琉漣はこの賈クと言う男が心髄から嫌いだった。
 曹昂と曹安民を死なせたし、何よりも賈クの策で曹丕が死にかけた。曹丕を、人生の道筋を照らす皓月だとあおぐ琉漣に取っては、どれほど時が流れようとも許せることではない。
 だというのに、当の曹丕が、賈クにそれなりの信をおいている。過去にとらわれず良材を重んじることが出来ることは、流石だと心服するにやぶさかではないのだが。
 だからこそ――、賈文和を、受け入れられない。ぎり……と武器の柄を握り締めた。

「……琉漣殿。そんなに熱心に注視されちゃあ、背中に風穴が空いちまいそうなんだがね」

 永嘆した賈クは、煩わし気な顔をして振り返った。目を合わせているのが不快で、双眸を伏せる。

「何故私が、貴殿なぞを護衛せねばならないのだか」
「何故って、そりゃあ。曹操殿がそれをお命じになって、曹丕殿がお許しになったからだろう」

 至極真っ当な返答をされて、琉漣はその澄んだ水のように美しい細面を濁らせ、舌打ちを一つした。
 相変わらず曹操は、琉漣が曹丕だけのものだと理解していない。――いや、理解はしているが、それをいっかな汲もうとしない。
 こうして戦の折に曹丕以外の人物――取り分け軍師や文官が多い――の護衛を任せられることが、ままありすぎる。曹丕にしても、琉漣が側を離れることを特段気にする風もなくそれを承諾する。
 こんなことなら、ずっと曹丕だけの師だと、宣言しなければ良かった。あの誓言以降だ、曹丕が他者の護衛を容認するようになったのは。
 返せば心底、誓いを信頼されているということなのだろうが――。

「……やれやれ。そうあからさまに、態度に出さないでもらえるかね、琉漣殿。上が割れてちゃあ、兵の士気が下がるだろう」
「黙れ。言葉を交わすのも不愉快だ」
「そう邪険にしないでもらいたいもんだがね……。俺は、結構、あんたが好きなんだが」

 鳥肌の立つような賈クの発言に、思わず目を開けて白眼視した。

「おいおい、そんな怖い目をしないでくれ」
「……私は、貴様が、心底、嫌いだ」
「言々句々区切らんでも。――しかし、なんだ。そこまで俺を意識しているってのは、琉漣殿、実は俺のことが好きだろう」
「死ぬか」
「あははあ、冗談。ま、あんたが俺を認めてくれてるってのは、わかってますよ」

 ――頭が痛い。
 増した頭痛に、琉漣はいっそう険しくなった眉間をもむようにして顔を伏せた。

「何にしても、曹丕殿とは長い付き合いになりそうだし、あんたも俺に慣れてもらわないと。――ところで琉漣殿。聞いたかい」
「……何をだ」
「いや、なんでも、呉の黄蓋って将が、周瑜にそりゃあ酷い目にあわされたとか」
「それで孫呉に見切りをつけて、こちらに降伏してくるというのだろ。聞いた。それがどうした」

 激しくなる痛みをこらえて、賈クの話に乗った。こんな男でも、気を紛らわすのには使えるだろう。

「うーん、黄蓋ってのは、呉の宿臣だそうじゃないか。なのに魏に降るっていうのが、どうにもね」
「主に見切りをつけて降伏する将など、いくらでもいるだろう。現に張コウ殿も袁紹を見限ったのだし」
「そりゃあ、袁紹がそれだけの器だったってことだろ。黄蓋は忠義に厚いと聞くし、周瑜と衝突したくらいで孫家を捨てるものかねえ」
「……貴様は黄蓋の降伏が偽りの物だと?」
「さて、どうかな。信じきるには、ちょいと引っ掛かるとこがあるってだけさ」

 言って賈クは背を向けてしまったので、琉漣は自ら話しかけることもせずに思考に没頭する。気を紛らわしたくはあるが、わざわざ賈クに話しかけてまで、会話で気を逸らそうとは思わなかった。
 ――孫呉の宿臣、黄公覆。確かに賈クのいう通りの人柄だと聞いたことはある。彼の忠義は孫家に対して強いものだから、はたして周瑜との軋轢で簡単に裏切るものなのか。
 たとえば自分が。司馬懿あたりと意見を違えて、それで鞭で打たれたとして、曹丕を捨てて他国へ降るだろうか。

(……有り得ない)

 曹丕は琉漣にとってたったひとつの生きる理由で、琉漣は曹丕にとって生まれて初めての"自分だけの味方"だから。
 たとえ曹丕の周囲の者と争ったとしても、琉漣は曹丕を裏切ることはない。――曹丕本人に捨てられない限り。

(尤も、曹丕殿に不要だといわれたのなら、私は魏を去るだろうが、他国へは移るまい)

 磨き上げたこの武は、曹丕のためのものだ。曹丕のための力で魏を攻めるなど、琉漣には到底できることではなかった。

(もしも――ああ、こんなことを考えているなんて知れたらそれはもう大目玉を食らうだろうが。もしも曹丕殿に不要だと言われたら、私はどうするのだろうか)

 やはり魏は去るだろう。他国へも行かない。では諸葛亮がそうしていたというように、山奥で晴耕雨読の日々を送るか。子供を集めて知識や武を与えることのできる力量も、琉漣にはある。
 或いは、西涼や烏丸のところを越えて、漢の外へ行って用心棒のようなことでもするか。

(……どれもしっくり、こないな。誰かのためにふるう力では、ないからか。曹丕殿のためだけの力を、曹丕殿以外のために使おうというのが、齟齬を生じさせる)

 ――残された道は、少ない。

(いつかその日が来てしまっても良いように。私は――"私"を殺すための覚悟をしておこう。琉子然を捨てる覚悟を)

 夜道を歩くための灯りをうしなうことが、何よりも怖いから。

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