曹昂の部屋の前に立つ曹丕を、司馬懿は曲がり角からぼんやりと眺めた。すでに一年が経とうとしているのに、あの子供はまだ兄が死んだ事を理解出来ないのだろうか。
 曹丕に限ってそんなわけはないと思うのだが、それでも日の暮れる時刻になるとそこに立つから、心配になる。一度は治まりかけたからこそ、曹丕の行動は余計司馬懿の心中を掻き回した。
 琉漣が呂布討伐に従軍してから、あの部屋を訪れる回数は増えたように思う。先だって曹鑠が病死した事も、少なからず影響しているのだろう。
 琉漣は、あの優男は出立の前に曹丕を自分に託していった。託されないでも司馬懿は曹丕を支えるつもりだった。だけれども、当の曹丕がすげないのではどうしようもない。
 司馬懿には、それが腹立たしくて仕方なかった。何故あの優男は良くて、自分は駄目なのか。
 己の才を買わない曹丕に対する怒りなど、身内のどこにも存在しない。信じてもらえないなら、こちらから迫るだけの事だ。それ程に司馬懿は、曹丕を主として認めている。それと同じくらいに、認めて欲しい。だから、曹丕に懐かれている琉漣が恨めしくてたまらない。この腹立たしさは、琉漣に対する嫉妬だ。
 あの男がいなければ、と思った事もある。武人にしては頼りない、細すぎる背中を見送った日も、呂布に討たれてそのまま帰ってくるなと、少しだけ思った。心底思わないのは、琉漣までもが死んでしまえば、曹丕が傷つくだろうと容易に想像出来るからだった。
 それもまた、腹立たしい。

「……曹丕様」

 夕陽が溶けきってから、寂し気に佇む幼子に声をかけた。明かりが消えれば、やたら聡い子供に醜い心を見透かされる事もないだろう。
 司馬懿に気付くと、曹丕はそれまで眸に灯していた寂しさを瞬き一つのうちに隠してしまった。声をかけたのが琉漣であれば、抱き着くなりなんなりしたろうに。

「兄君は、そうしていてもお戻りになりませんぞ」

 単なる想像にまた腹を立てて、見上げて来る眸に少し、厳しい声を発してしまった。後悔したのは言い終わってからだったので、取り繕う事も出来なかった。
 取り繕う前に、曹丕が分かっていると妙に大人びた聲で言ったからだ。

「そんなことはとうに理解している」
「では何故、わざわざ逢魔時を選んで曹昂殿の部屋を」

 人の時間と鬼の時間が溶合う夕暮れなら、霊の類いでも会えると思っているからだろうか、と考えて、司馬懿は即座に打ち消した。
 会いたくて来ているのではない事は、死を理解していると言ったことからも明確だろう。

「詫びたい、のだと思う」
「詫び?」

 一体何を詫びる事が在るのか。
 司馬懿の反芻に頷いて、曹丕はまた曹昂の部屋を外側から眺める。そう言えば、以前のように部屋の中までは入っていかなくなったことに、司馬懿は今更になって気がついた。

「私がここにいるのは、子然が助けてくれたからだ」
「はい」
「私が二人を助けようと思った時、子然が"ひとりにするのか"と言って私を引き止めた。だから私は、二人を見捨てた。……それを、詫びたいのだと思う」

 琉漣を喪いたくなかったから、兄と従兄を見放したのだと曹丕は言った。血縁よりも、生まれて初めての味方を選んだ。これは曹丕がした選択で、琉漣が選んだ事ではない。曹丕に選ばせたとしても、最終的に決断したのは紛れもなく曹丕だ。だからこの件で琉漣が自責の念を抱く理由など、どこにもない。
 ――けれど琉漣は、自分を責めている。自責の末に、曹丕から距離を置いている。今回の従軍も然り。そのことを司馬懿は知っていた。筋違いだと叱咤する事も出来たが、そうしなかったのは嫉妬していたからだ。

「きっと子然は、私が頼めば大兄様や安民殿を助けに戻ってくれただろう。だが、そうしたら琉漣を喪うかもしれないと思って、頼めなかった。……頼まなかった。多分、子然は命を賭してでも私の願いを叶えてくれるだろうから」

 叱咤、してやれば良かったかもしれない。
 引き止めた事で自責しているのなら、それは琉漣が決着をつけるべきだが。なにも手を貸してやってはならないということはない。
 叱咤して、筋違いだと説き伏せれば、もしかしたら曹丕は、このように寂し気な声を出さなかったかもしれない。

「本当は私こそ、今回の従軍は引き止めたかった。呂布のような暴威相手では、いくら子然といえども無事ですむかどうかわからないから。大兄様も小兄さまも遠くへ行ってしまったのに、この上子然にまで死なれたら、私はどうしたらいいのだ……」
「……曹丕様」

 まだ小さな手をきつく握り締めて俯くこどもの傍らに膝をつく。覗き込んだ薄く蒼い眸は、闇の中ではよく見えないけれど、潤んでいるのかもしれない。
 拳をやさしく解いてやって、爪痕の残ってしまった掌を包み込んだ。

「私では、役不足ですか」

 胡乱気に、見られる。

「私とて、あなたを支えたいと思っているのに、どうして信じてくださらないのですか」
「……お前は、平気で、嘘をつきそうだ」
「吐きます。大人ですから。ですが貴方には、誠実でありたいと思っています。……漸く、望んだ主に出会えたのに、その人から信を貰えない寂しさがお分かりになりますか」

 はっと息を飲むのがわかった。種類は違えど、寂しさはよく知っているのだろう。
 だからこそ、この子供は一人になるのを嫌がるのだ。自分だけを見てくれる人がいる、その幸せを得てしまった後だから、尚更に。

「琉漣が消えても、私がおります。ですから、」
「……か、勝手に子然を殺すな、馬鹿者が!」
「痛っ!?」

 包んでいないほうの手で、額の辺りを容赦なく叩かれた。
 曹丕は子供といえどもう戦に出るような早熟ぶりなので、そこらの同年代の童よりも力が強い。その曹丕に貰った平手は殊の外痛くて(まさか手が出てくるとは思っていなかったのもある)、手を放して叩かれた辺りを押さえ込む。

「子然を嫌っているうちは、重用などしてやらんからな」
「あんまりです、それは。と申しますか、人事に私情を持ち込むものではありませんぞ」
「お前が子然を好きになればいいだけだろう、仲達」
「…………!」

 降ってきた言葉に、がばりと顔を上げる。勢いが良過ぎたからか、曹丕が気味悪気に一歩引いた。
 いまこの小さな主は、自分を何と呼んだ?
 聞き間違いでなければ、仲達と、字で呼ばなかったか。今までは、司馬懿と、面倒そうに呼ばれていたのに。

「……そ、」

 曹丕様、と叫んで抱き着きかけたが、気持ちの悪いものを見るような目で見られた気がしたので、司馬懿は何とか自制した。




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