月光の在る路


 琉漣が皓月を得てから、随分と時間が過ぎた。曹丕はもう、初陣を済ませている。他と比べて、早すぎるほどだったが。
 そうして、僅かに十一歳の子供は、燃え盛る宛城で、敬愛する長兄と、従兄を喪った。曹丕自身は琉漣が何とか守り抜いたが、一年が過ぎようとしている今なお、曹丕の心の整理はついていないらしかった。
 ――無理も無い、と思う。成人して大分経つ己でも、随分と時間の要ったことだ。幼い子供なら、尚更だろう。恐らく曹丕は、曹昂と曹安民を喪って、初めて"死"が如何なるものかを知ったのだ。
 たまに、曹昂の居室――だった部屋――を訪れているという。当たり前のようにあった温もりが、二度と得られない事実に、戸惑っているのだろう。
 そのような曹丕の傍に、琉漣はいられなかった。不在の間は、二年前に出仕させられて同じく曹丕の世話役と成った司馬懿が、何とかしてくれるだろう。二人の仲が良好とは、言い難いけれど。
 曹丕の心さえも守れるとは、思っていない。けれども、守りたいと、思っている。出来うる限りだ。
 だと言うなら、曹操に馬を貸した曹昂を、炎に巻かれる曹安民を、曹丕を逃がしてから助けに戻れば良かったのだ。折角得た月を喪いたくないという固執は、それを躊躇わせた。助けに戻りたがる曹丕を、卑怯な言葉で引き止めた。――私をひとりにするのですか、と。
 故に、琉漣は曹丕を慰めることが出来ずにいる。後ろめたさと、曹丕を喪わずに済んだという安堵が、己の心を責める。いっそ曹丕が責めてくれたなら、と思ってから、琉漣はすぐに自嘲した。
 浅はかな考えだ。自分で決着を付けるべき迷いを、幼子に委ねようなどと。それは自己満足だ。曹丕に責めてもらっても、自分の心が楽になるだけで、曹丕の心は癒えはしない。
 自嘲を感じ取ったのか、馬上の曹操が視線だけでどうかしたのかと問うてきた。曹操の右隣にいる夏侯惇も、同様だった。それに首を横に振る。
 曹操軍は今、下ヒへの道中に在る。下ヒ城を劉備から奪った鬼神・呂布を討伐するためだ。
 劉備に乞われての、ではあるが、あの男を放置しておいては危険だと曹操も思っているようで、これを機に軍を出した。
 琉漣も、それに参じている。雪が降りそうだな、と、馬に揺られながら空を仰いだ。

「それにしても、おぬしが素直に従軍するとはな、琉漣」

 揶揄するように、曹操が言った。

「――十年です」
「ん?」
「汝南が落ちてから。義父上殿が、貴殿に討たれてから。十年が、経ちました」
「……うむ」
「それだけあれば、心の整理をするには十分です。義父上殿の遺した言葉を、私は全うします。それが、私の路です」

 己だけの月を見つけろ、と養父は遺した。自分の生きたい路を往け、と、そう言うことなのだと、琉漣は思っている。
 月は、もう見つけた。曹丕だ。あの日、小さい手でこの手を握ってくれた、愛おしい命。彼を守ることが、助けることが、己の生きる路なのだ。月を、二度と喪いたくはないからこそ、何としてでも守る。
 身体が傷つかないようにするだけでは守るといえないのだと、宛城の件で琉漣はよく思い知った。だからこそ、彼の大切なものも、守ろうと思った。
 結果的に曹昂達を死なせてしまったことへの償いは、そうして果たそうとも思っている。

「それに……呂布を討つ事も、貴殿の路を助ける事も、それは曹丕殿の路を助ける事に繋がります」

 長男の曹昂が死んだ。曹鑠は曹昂の戦死が堪えたのか、宛城以降ずっと臥せって、そのまま亡くなった。
 順当にいけば、曹操の跡取りは曹丕という事になる。それゆえに、敢えて曹操を助けようと決めたのだ。もう、憎悪は殆ど消えている。養父も義兄も、仇を討つより最期の言葉に従ったほうが、喜んでくれる気がした。

「今の私には、それぐらいしか……してあげられませんから……」

 夏侯惇が、顔を背けた。曹操は、何とも言い難いような顔で、まだこちらを見ている。曹昂を死なせたせいで――曹鑠は病死なので仕方ないにせよ――丁夫人から離縁されたのは、良い薬になった事だろうか。

「……知らぬ間に、随分と仲良くなったようだな」
「……はい?」

 どこか拗ねたような声柄で曹操が言ったので、妙に苛ついて目を眇めた。夏侯惇はどこか呆れたような眸をしている。
 人を強引に世話役にしたのはどこの誰だったか。そうしておいて、どうして仲良くなったからと云って恨めし気に見られなければならないのだ。
 無性に苛ついてつい睨みそうになってしまったが、曹丕の立場が悪くなるかもしれないと思い、琉漣は細面に爽やかな笑顔を貼付けた。多少、引き攣ってはいたが。

「曹丕殿は、私の皓月ですからね。曹丕殿御自ら、私の傍にいてくださると」
「……ええい!」
「?!」
「何ッで子桓は夏侯惇や琉漣にばかり懐くのだーッ!」
「……はい?」
「……孟徳」

 唐突に癇癪を起こした曹操に瞠目するが、続いた言葉に更に目を見開く。米神を押さえた夏侯惇を見るに、初めての事ではないのだろう。

「ずるいではないか!」

 と睨まれたが、随分と理不尽で不当な怒りをぶつけられている気がする。
 だったら最初から世話役になんかするなと反論しかけて、自重した。

「お前、今までの態度で子桓に好かれるなどと、本気で思っていたのか」

 馬鹿か、と続きそうな声柄だった。侮蔑の代りに、同じような意味を持つであろう溜め息が、夏侯惇の口から漏れた。

「わしを恋しがっているところに颯爽と現れるわし! うれしさで笑顔いっぱいになって抱き着いてくる子桓! とか、予定していたのだぞ!」
「馬鹿か」
「なんだと!」
「すみません、だいぶん気持ち悪いです」
「琉漣まで!」
「一発殴ってもよろしいですか、本気で」

 にっこりと笑って拳を握ると、曹操の頬が引き攣った。今自分はとても良い笑顔をしているのだろうな、と琉漣は少し他人事のように思った。

「……子桓が、心底哀れだ」
「夏侯惇殿。曹丕殿、私の養子にしたいんですが。少なくとも九割は本気です」
「ああ、それは良い考えだな。琉漣が父なら、子桓も良く育とうよ。……と言いたいところだが、お前との間からものすごい怨嗟が飛んで来るので、まあ諦めろ。この馬鹿にも一応、跡継ぎは必要だ」
「それは、残念です」

 これが叶ったら叶ったで、夏侯惇との間からだけではなく、司馬懿からも恨まれるだろうなと、少し笑った。曹丕はまだ司馬懿を信じきれていないが、司馬懿は曹丕に出会った瞬間、運命を感じただの言っていたから。
 ――思えば、自然と笑みがこぼれたのも、暫くぶりの事だった。


 呂布討伐から凱旋すると、どう言った訳か司馬懿と曹丕の仲が良くなっていた。
 不思議に思って尋ねてみても司馬懿は自慢げにはぐらかすし、曹丕も「秘密だと言われた」と言うので、琉漣は首を傾げているしか無かった。
 何であれ関係が良くなったのだからまあいいか、と自己完結していると、曹丕から声をかけられる。

「そうだ、子然」
「はい?」
「……おかえりなさい」

 安堵の色を隠そうとせず、微笑みながら生還を喜んでくれた事が嬉しくて、あの日よりも大きくなった身体をついぞ、思い切り抱きしめた。

「ただいま戻りました、曹丕殿」

 司馬懿がわめいて煩いし、扉の影から覗いていた曹操が羨まし気な視線を送ってきて鬱陶しいけれど――この幸せに比べれば、琉漣には何でも無い事だった。



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