02 冷たい時間
叩き落された手がじんじんと痛む。
それほど強く叩かれたわけでも無いのに、そこだけ切り取られたように痛かった。
武村さんは警戒と疑問を混ぜたような目で俺を見ていた。
どうして僕を知っている、だって?そんな今更説明しなくても…昨日も電話したばかりだし、もうどれだけ一緒にいると思ってるんだ。
…もしかして、からかおうとしているのか?
「いや…どうしても何も、知ってるに決まってるじゃないですか」
「…………。誰かに、聞いたんですか?」
「はぁ?」
話が噛み合わない。
だが武村さんの表情は至って真面目で、とても冗談を言っているようには見えなかった。
誰に聞いたって言うんだ。
アンタを知ってるなんて今に始まったことじゃないじゃないか。
一体何のことなんだ、と声を掛けようとしたその時。また冷たい風が二人の間を通り抜けた。
「とりあえず喫茶店…行きませんか?」
「……………」
家の前で喋っていたんじゃ人の目につく。
警戒心丸出しといった様子で、それでも渋々武村さんはついてきてくれた。
何なんだ。
俺はどこに迷い込んじまったんだろう?
俺の前にはアイスコーヒーが一つ、彼の前にはブラックのホットコーヒーが一つ。
彼はコーヒーには口をつけようとせず、値踏みするように俺を見つめてきた。
「…冷めますよ?」
「わかってますよ…」
本当にどうしちまったんだろう。
まるで違う世界に迷い込んでしまったみたいだ。
武村さんは敬語で、俺のこと一切覚えてないみたいで。
家には入れないし、武村さん、いつもはミルク入れるくせに。
一体何から話そう…と迷っていると、一つ溜息を吐いて武村さんが口を開いた。
「…さっきも聞きましたけど、どうして僕のことを知っているんです?お会いしたことは無いはずですよね」
「いや、会ってないことは…」
むしろ今日だって会いたい会いたいと言ってきたのはアンタだろう、と言ってやりたかった。が、彼の雰囲気がその言葉を封じてしまう。
「少なくとも僕にはお会いした記憶がありませんが。一体あなたは誰のことを言っているんですか?僕とあなたにどういう関係があったって言うんです」
「どういう…って…」
冷たい口調で一気に捲し立てられ萎縮してしまう。ちらりと目線だけ上げると、眼鏡の奥の瞳が冷たく「早く言え」と言わんばかりに睨んでいた。
どういう関係って…そりゃあ、その…。
その先を口に出来ずにいると、武村さんがまた一つ溜息を吐いた。今日はまるで立場が逆転したみたいだ。
見覚えの無い財布から千円札を取り出し、テーブルの上にそっと置いたかと思うと、まだ一口も飲んでいないコーヒーを残して彼は立ち上がる。
「どうやらこれ以上話しても無駄みたいですね。…まぁ、いずれ調べさせていただきますよ。さようなら」
「ちょっ…!待っ、待てって!!」
武村さんの腕を掴む。咄嗟だったせいか、強く掴み過ぎてしまった。
半分痛そうで、半分嫌そうな顔に慌てて手の力を緩めた。
「…何なんですか。まだ何かあるんですか?」
「いや…!だから、その…ア、アンタ、俺のこと好きだっただろ!?」
「……………」
直球。
オブラートに包もうとしたのに、どストレートに言ってしまった。客のいない時間帯だったのがせめてもの救いだ。
どうして武村さんが俺のこと忘れてるのか分からねーけど。
なぁ?俺のこと、思い出してくれよ。
その想いが通じたのかどうなのか、武村さんはふっと表情を緩め、掴んだままの俺の手に手を添えてきた。
優しい手つき。
まるで童話の王子がお姫様にするような気障な仕草で手を取られる。
「……君は」
「は、はい」
「僕のことが好きなのかい?」
「はぁっ!?い…いや、その…」
嫌いなわけは無い。が、こんな所で好きとも言えやしない。
肯定も否定も出来ずにいると、ふっと武村さんが初めて微笑んだ。
「武村さ――」
「有り得ませんよ。気持ち悪い」
冷たく言い放ち、乱暴に手を振り払われる。
胸倉を掴まれ、耳元に顔を寄せ、いつもと同じ声、同じ囁き方で罵られる。
「…あなたのような変人があの子の親戚とはね。どこで僕のことを知ったかは知りませんが、今後一切僕に…僕たちに関わらないで下さい」
「な…なに……言って…」
唇が震えて上手く声が出ない。
どうしてそんな事を言われなければいけないのか、分からなかった。
怒りより何より、悲しさと寒さを感じた。
そんな沈黙の中で、小さなバイブレーション音が鳴る。彼の携帯だ。
彼は俺を一瞥してから手を離し、受話ボタンを押した。
「もしもし。――あぁ、由里さん?」
「…え……?」
俺の小さな反応に気付き、彼はさっと背を向けた。
今、確かに「由里さん」って…!
「お、おい、由里って誰だ…」
「ん?あぁ、ちょっとうるさいけど気にしないで。大丈夫だよ。うん、今からそっちへ行くから」
「オイ!待て!!」
「ちょっとお兄さん落ち着いて!」
追いかけようとした所を、店のマスターに止められる。武村さんは最後に嫌そうな顔で俺を睨みつけ、足早に喫茶店を去ってしまった。
…姉さんが生きてる?
それとも、名前が同じなだけ…?
色々なことがありすぎて考えが纏まらない。本当にどうしちまったんだろう。
なぁ、誰か。
教えてくれよ…!!
「ミーツケタ」
「…あ……?」
いきなり誰かに後ろから目隠しをされる。店のマスターかとも思ったが、その声にはとても聞き覚えがあった。
「…チェシャ猫…か?」
「オジサン、迎えに来たよ」
「迎えに?」
目隠しを取られて周りを見回せば、そこは喫茶店ではなく、周りがぐにゃぐにゃした奇妙な空間になっていた。奇抜過ぎて見ていると気分が悪くなってくる。
思わず口に手を当てると、今度は頭を抱き寄せるような形でローブに顔を埋められた。
「僕は導く者だからね。いいかい、僕の手を離しちゃいけないよ」
そう言うチェシャ猫は妙に頼もしくて、俺は自分より僅かに体温の高い手をぎゅっと握り返した。
塞がれた視界の中、安心したように笑う気配を感じて、チェシャ猫が滑るように歩き出す。
「なぁ…今のは何だったんだ?」
「オジサンは時間くんに巻き込まれたんだね」
「誰だそれ…」
またコイツの仲間だろうか。
…何せ、俺は元の世界に戻れるんだよな?
俺の知ってる、元の世界に。
しばらく歩いていくと、ローブ越しに強い光を感じ始めた。そこで不意にチェシャ猫が手を離す。
「オジサン、ここからは自分で歩いてお行き」
「お、お前は…?」
「決して振り返ってはいけないよ」
…なんか、神話か何かみたいだな。最後に一度だけ猫の姿を確認したのだが、背中を押され、「ダメだよ」といつもの声で窘められてしまった。
道も何も無い不思議な空間。
本当にあの光の方で合っているんだろうか、と不安になる。
だが、ここで振り返っちゃあダメなんだよな?
そんなことを考えていると、光を背負って誰かが立っていることに気がついた。
近付けば近付くほど眩しくて目を開けていられなくのだが…あれは、武村さん?
逆光で顔は見えないが、そのシルエットは確かに彼のものだった。
「こちらに来ないで下さい」
「っ!」
「僕に関わらないで、と言ったはずです。あなたは自分の世界へ帰ったらどうです?あなたの顔なんて二度と見たくないんですよ」
先ほどと変わらない声色で、武村さんは俺の背後を指差した。
セオリー通りなら、これは罠だ。
だが、彼の冷たい声が俺の歩みを止めてしまう。
ぐにゃぐにゃとした空間を、コツリコツリと硬質な音を立てて武村さんが近付いてくる。
「僕の声が聞こえないのかい?早く消えてくれないか」
どんっ、と強く肩を押された。彼の背後で光が徐々に消えていく。
あぁ、やっぱり俺は道を間違えたんじゃないだろうか?拒絶の目と、罵声と、俺を向こうへ追いやろうとする手が痛くて、悲しくて、でも前にも進めなくて、ただ立ち尽くして我慢する事しか出来ない。
「消えろよ」
「武…む、ら…さん」
「僕の名前を呼ぶな」
逃げ出したい。
こんな武村さんは知らない。
だって武村さんは、いつもヘラヘラ笑ってて、春の陽気みたいな声で俺を呼ぶじゃないか。
――康平くん
「さようなら、和田さん」
武村さんの冷たい手が、俺の喉を締め付ける。
夢だとか幻だとかそんな風には思えない力で、容赦なく呼吸を奪われた。
殺意に満ちた彼の瞳が怖い。
――康平くん
「ご…ごめん…っな…」
「やっと消えてくれる気になった?」
嘲笑。
僅かに手の力が弱まった。
――その瞬間。
「おらぁっ!!」
「ぐっ…」
酸素の足りない脳に鞭打ち、躊躇せずに彼の胸倉を掴み上げた。
光はもう消えつつあって、彼の苦悶の表情が薄暗闇の中で目に映った。夢か現か知らないが、あまり気持ちのいいものではない。
「…ごめんな」
「は…っ、離…せ」
「俺、アンタのことが好きなんだ」
「僕は…嫌いだ…っ」
「そうか」
でも、ごめんな。
多分俺、嫌われても好きなんだ。
――康平くん――
耳を澄ませば今も、アンタの優しい声が聞こえるくらいに。
掴んでいた手を離し、俺はもうすぐ消えようとしている光へと歩き出した。
光は暖かく、まるで毛布のように俺を包み込んで――…。
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