『…巨人関係の授業って、これだけですか』

こくり。肯定の意味を込めて頷いた蔵田さんを見て、内心嘘だろと思った。
目の前に置かれたわずかな書類は、この学校で実際に使われている巨人学に通ずる授業関連の資料だ。仮にこれが細かくびっしりと書かれた内容だったとしても少ないし、これにはびっしりとなんて書いていない。ローゼやマリアの子供でも知っている内容ばかりだ。シーナとの格差はこんなところにも表れているとは。口元に手をやり、静かに溜息を吐いた。

……いやー……嘗めてた。正直、シーナの巨人学嘗めてたわ。

私はもう完全にあちら側の人間なんだな。シーナに戻れる訳もない。価値観の相違でいつか死ぬ。
そんなバカげた事を音にはせず心の中だけで呟き、そんな事より今日の授業と思考を戻した。しかし困ったな。こんなに資料がないんじゃ、当初予定していた授業は出来ない。

『仕方ない、授業内容を変更しましょう。道具類は片付けてしまって結構です』
「あの、筆記用具とかもですか?」
『何もいりませんよ』

こちらの不手際でごめんなさい、なんて言いながら自分も机の上を片す。いやほんと…まさかこんなに資料が不足しているとは思っていなかった。
念のためとはいえ、兵団から資料を引っ張り出して持たせてくれたハンジさんに感謝せざるを得ない。あの人、普段あれなくせに実は凄くキレる人だからなー。ほんと尊敬する。
ほとんどの生徒が机の上をきれいにして、こちらを見ているのを確認して蔵田さんも席に着かせた。
この授業、特に補助等は必要ないだろう。何もないし。

『さて、実技をします。…と言っても、ここは1年生と3年生の集まりというアンバランスなグループ。初日ですし、キース教官のようなものは今回行わないつもりです』
「助かったー…」
『まあ、そういう事で今日は兵団の敬礼をやって終わりにします。出来た人から解散で』
「ちょ、秋野さん!そんな適当な、」
『……蔵田さん、私達調査兵団はボランティアで来てるんじゃないんですよ』

途端、空気が凍ったような教室に、にこりと笑った。1番固まっていたのは、先程助かったー等とふざけた事を抜かしていた男だった。
ざまあ見やがれ。私がこの命令に快く参加しているとでも思ったのか、バカめ。その男に視線を向けて続けた。
少し話をしてあげよう、と。

『シーナから出た事のない君らにとっては、あの3年前のシガンシナ崩落でさえ些細な事だろう。巨人が、壁を破ってくる事などありえないと思っていたのだから』
「、っ」
『だが実際、壁は破られた。ウォールマリアは突破され、地域住民はローゼへ。そのせいで今度は食料が不足し、開拓と称してマリアの住民を口減らしのために危険な外へ出した』
「……嘘………」
『ほんとですよ。結果、領土の3分の1と人口の2割を失った。その上で君らは何も知らずに生きている』
「……………………」
『君らが食べた物も、服も、その机や椅子でさえ、巨人に喰われた者達のおかげで手に入れたものだ。彼らの血肉だ』
「…意味……わかんねーんだけど」
『あー…言い換えましょう。―――人類が、君が、彼らを殺したんだ』

無関係だなんてよく言う。犠牲になった開拓民の彼らもそうだが、護る対象さえなければ、私達兵士だって無駄死にしなくてすむのだ。この世界に生きる以上、無関係なんてものは存在しないのだ。
……しかし若干。若干ながら、やり過ぎたかなーなんて思っていれば、私の視線の先にいた男がガタンッと立ち上がって教室を出て行った。
ああ、やらかした。
ちょ、山内君?!とその生徒の名を呼んで追いかけていく蔵田さんを見て、内心呟いた。

エルヴィン団長やリヴァイさんに怒られるのは嫌だと思ってキース教官までを敵に回したというのに、何やってんだ、私。

『やっべ……一時のテンションに身を任せ過ぎた…』

うん、やっぱりあれだよね。こういうの向いてないんだよね。
王様もよく人を見ろよ。憲兵団に使える奴は数人いるし、何でも第104期訓練兵団にいい人材が入ったらしいじゃないか。たった2、3年間のカリキュラムの内の数か月くらい待ってくれたっていいじゃん。
誰かに聞かれたら、一瞬で不敬罪となって殺されるような内容を考え、不毛過ぎるとすぐに取り払った。

『授業内容進まないじゃん…あ、いや、今のは近年の巨人歴史学にもとれる、か…?』
「あ、の、秋野…先生?私達はどうすれば…」
『ああはい、授業終了なので解散して結構ですよ。今の歴史学なので』
「えっ」
『敬礼等はいずれやる体力調査の時にでもやりましょうか』

どっちにしろ今日はなしだ。興が削がれたとばかりに溜息すれば、生徒達は困惑を顔に滲ませながら、1人、また1人とちらほら出ていく。
蔵田さんはまだ帰って来ない。とりあえずはこの場で待つつもりだ。その間に、さっきの言い訳を考えねば。

生徒の約半数が出て行ったかという時、私の前に影が1つ落ちた。
とても真面目そうだ。目の前に教材を抱えて立つ少女を見て、ふとそんな印象を抱いた。

全く染色のされていない髪に清潔感のある制服、そして銀縁のメガネ。事前に見せてもらっていた筆記テスト、3学年次席の…―――だめだ、名前までは思い出せない。
成績上位だし、先生方が下の名前しか呼ばないし、図書貸し出しの履歴が気になっていたから、顔は覚えていた。
どこぞの誰かに似た、この場には似合わないほどのほほんとした空気に妙な懐かしさを覚える。そんなはずはないと考えている間にも、彼女は口を開いた。

「千尋先生、お疲れ様です」
『、……』
「山内君はいつもあんな感じなので…気にしないでも、大丈夫ですよー」
『そ、う、…なんですか』
「敬語とか止めてくださいよ、千尋先生。鳥肌立っちゃいますからー…」

独特な間合いとリズム、そして特徴的な言葉ののばし方。ざわざわと心だか胃だかわからない部分がざわめく。
……妙な予感だが、もしかしたらもしかするかもしれない。

あー胃の痛みがやっべーわ…と思いつつ、妙な緊張感に支配されながらも口を開いた。

『………き、みの…名前は……』
「さくら。空閑さくらです、―――千尋さん」

途端、脳内に何かがフラッシュバックする。
あの時その場にいた者達が皆、口をそろえて"地獄だった"と証言をする、あの、脳裏に焼き付いて離れない光景が。
震えと、
吐き気と、
気持ちの悪い脂汗。

―――吉野の、空閑吉野の妹だと。

そう私の脳が理解をし、その事実に体が嫌な反応を示すまでは、ほんの、瞬きの合間だった。

『…ぅえ゛…っ…』

吉野、吉野。空閑吉野。
訓練兵からの、特に仲の良かったメンバーのまとめ役だった、友人。

もうしばらくは忘れていた懐かしく、そして気持ちの悪い嘔吐感を何とかやり過ごし、はあはあと荒い息を整える。

吉野の妹がいるなんて聞いてないよ、リヴァイさん。

「ちょ、大丈夫ですか?」
『ああうん…。あー…君と会うのは……2度目かな、さくらちゃん…』
「!、覚えてて、くれたんですか?」
『名前を聞いて。それによく見ればそのメガネは…吉野の遺品、だよね?』
「あ…はい。千尋さん達が必死に取り戻してくれたものの1つですから」

無邪気な笑顔に心が痛む。一生癒えない傷だと言ったのは、果たして誰だったか。

「……千尋さん、兵士長補佐になったんですね」
『私だけじゃないよ。フリーレンは憲兵団でトップの方だし、メーアは駐屯兵団の副官様々だ』
「大出世じゃないですか」
『死に急いでるだけだよ。…私も、あいつらも』

まるで吉野の後を追おうとしているように。
周りからはどうもそう見えているらしいよとふざけたように笑えば、さくらちゃんは顔を少し歪めた。気づかないふりをして立ち上がる。

まあいい、さくらちゃんがいるのなら渡したいものがある。

『さくらちゃん、君に返さなきゃならないものがあるんだ』
「…え?」
『講師室にいるから、時間が出来たらおいで』

それまでに落ち着いておくからとは、心の中だけの呟きだった。






「巨人歴史学と銘打って」



 



×