Albtraum
「ご苦労。戻って休め」
韻は伝令を下がらせ、一人、筆を取った。 暗い室内に、蝋燭の明かりが揺らめく。 近日、皖の忘れ形見である基が帝に即位する為、戴冠式が行われる。 韻は出席出来そうに無いと丁重に認め、式までには書を届けさせる予定であった。 このような時期でなければ、甥の晴れ姿を目に焼き付けておきたいと思う。だが、時は今、正に危急存亡の秋である。 皖を見送った翌日には既に都から早馬で飛んで帰ってきた程、状況は切迫しているらしい。 乕が、すぐそこまで迫っている。
「不肖、この張紅藍は陛下を、ひいてはこの魁国を守る為、修羅となりましょう……」
韻の筆を持つ手が止まった。
「誰だ」
背後に、今までは全く感じなかった気配を感じる。
「お前がこの国を守る理由は何だ」
男の声だった。どこかで聞いた記憶がある声だが、どこであったか思い出せない。
「何故私がそのような事に答えねばならぬ」
韻は筆を置いた。
「既に最大の理由はこの世に亡く、自由であるのに」
「祖国を守るのは当然の事。貴様が何者であるかは知らないが、下らない問答をこれ以上続ける気はない」
くるり、と器用に正座のまま向きを変え、韻は背後の気配と向き合った。 ボロボロの衣服に、ボサボサの伸びきった髪……男は放浪者と言った様である。 だが、どことなくただ者ではない雰囲気が漂っていた。 確かに、どこかで会っている。
「それがお前の“幸せ”か。素直じゃないな。もっと望めば、もっと多くの幸せを得られただろうに」
「必要無い。多くを求めるは、破滅を招く」
韻は袖口の短刀を確かめた。
「貴様、誰だ」
男は隙間の目立つ歯を剥き出しにしながら不気味に笑う。
「俺を殺そうとしたって無駄だぜ。俺は、お前だ。お前の闇だ。お前が生きている限り、俺は決して消える事はない。俺はお前の代弁者なのさ。……」
「太守様、まだ冷えます。お体を大事になさって下さいませ……」
小さな寝息を立てる韻の肩に、衣がそっと掛けられた。 前 | 次目次 |