紀綱
 青い空、青い海、そしてたなびく俺のボロくて青い外套……。

 彼は海岸に仁王立ちしながら空を仰いだ。
 張紀(チョウキ)、字は子綱(シコウ)。
 元は名家一族の出である男であったが、何を血迷ったのか、十五で家を出奔して以来四十年、傭兵家業を生業として生きている。
 幸いであるのか、仕事に困った事は今の今まで一度も無い。
 出奔してすぐ、都で栄氏が乱を起こし、世が正しく乱世となった為である。
 以後戦場を渡り歩き、天の巡り会わせでこうやって生きながらえている。

「運も実力のうちさ」

 紀はよく言って退けた。
 今は丁度その“実力”である危機感知能力が鋭敏に反応し、戦場からおさらばしてきた所である。

「さて、次はどうするかな」

 紀は砂の丘に寝転がり、瞳を閉じた。
 暫く雇われていた乕は出し惜しみが酷く、逆に戦が多い。つまり割に合わない。
 かと言って祿は仕事が無さ過ぎてつまらないし、燕はさらに薄給。
 燮の後継、魁に戻るしかないか。
 しかし……。

「子綱、子綱ではないか」

 何処からか女の声がする。聞き覚えはない。
 に、しても、字で呼ばれるのは何年ぶりであろうか……。

「んぁ? 誰と間違えてるんだ。俺は……そうだな。李さんだ」

 適当に答えてみた。
 目をゆっくり開くと、妙齢の、武装した女が紀の顔を覗き込んでいる。
 はて、何処かで会っただろうか。

「相変わらずだな、叔父上。十八年ぶり……いや、それ以上か。私は秀の娘、韻だ」

「ははぁ? 誰だ、そりゃ」

 韻は柳眉を寄せる。
 うん。美人だが、触れると切れてしまいそうな類だ。触らぬ神に祟りなし、と。

「風の噂で聞いてるよ。北方の乱を鎮めた英雄サマだな。韻よ」

 よいこらしょっと。と、紀は半身を起こして韻と向き合った。

「私は英雄なんかじゃない。父上の願いを叶えただけだ……。それより叔父上、叔父上は今何をしていらっしゃるのか」

「何もしてないよ。そろそろどっかの田舎に引っ込んで、隠居生活でもしようと思ってたトコだ」

「また戦場離脱してこんな所にいるんだろ。そろそろ傭兵なんて辞めて、正規の軍に来ないか」

 つまる所、韻は魁に来いと言いたいらしい。
 紀は深い溜息を吐く。

「正規軍の給料は薄給でなー。命張る価値が感じられんわけよ。元来俺には愛国とか無いしな」

「それならば、本当に隠居生活をなされるがよい。まだ他国に傭兵として流れる気が微塵でもあるのならば、ここで斬る」

 笑顔で怖い事を平気で言う。
 人間ってつくづく恐ろしい、と紀は思った。


あとがき

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