闇夜の剣花
辺りはすっかり暗く、ひたひたと足元が凍り付くように冷える。 冬場の夜は深い。 張皖は一人机に向かい、筆を持っていた。 唯一の明かりである、灯籠の焔が揺れる。
「酒を。今宵は二人で飲むとしよう」
皖の背後に立つ人物は答えない。 足音も立てず部屋に入り、ここまで近付いて来たのだ。ただ者ではない。 それでも皖は悠々と構えている。
「暗殺者と酒なぞ、俺も酔狂な事を言うな」
皖は言いつつ、振り返らない。 最初から殺すつもりならば、もう既に刃が向けられていても良いはずなのだが、殺気すら未だに感じないのは如何してだろうか。
「今から殺されようと言うのに、その落ち着き具合が解せぬ」
意外や、声は女のそれであった。 皖は筆を置き、半身を捻る。 振り返った先には、女にしては背の高い影が暗闇に立っていた。 美人に好かれるのは嬉しいが、暗殺者とは非常に残念だ。
「君には残念な事だが、俺は死なない」
にこりと微笑んだ後、皖は右手を軽く振る。すると小さな剣がその手に握られていた。 影は身構える。
「楽には死ねんぞ。覚悟は良いか」
「そちらこそ」
剣花が煌めくが、相変わらず殺気は無い。
「君は、俺を殺す気が無いようだが」
「雇い主がいけ好かない」
暗殺者には向いてないな、と内心皖は苦笑した。正直すぎる。
「なら、俺に仕えないか? 給金は弾むぞ」
鍔ぜり合いに持ち込み、耳元で囁く。
「暗殺者慣れしていると思えば。他にもそのように口説いたりしているのか」
「そうかもね。おっと……」
力任せに合間を開けられ、皖は少しだけよろめく。 確かに、命を狙われる事には慣れている。 大方、皖が油断していると見た暗殺者は一瞬隙が出来、返り討ちに合う。
「誰の差し金だ……いや、言わずとも良い。俺の命を欲しがる輩は沢山いるが、このような手を使う人間の見当は付く……」
「見当違いだったら? 以外にお前の身近な人間が雇い主かも知れぬ」
皖は片眉を持ち上げ、ニヤリと笑った。 だから暗殺者らしくなかったのか。
「帰ってあの馬鹿に伝えておけ。気遣いは無用だ、とな」
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