干杯
空は、分厚く暗い雲が立ち込め、まだ正午を過ぎたばかりとだ言うのに明るさがない。 傘を持って出なかった事を後悔しつつ、張皖は足を急がせた。 生温い風に、橘の香が混じる。 向かう先は、とある酒場。 一度は破壊され、瓦礫の山となった店だが、陳元才が建て直し、近々営業を再開する。 その開店よりも前に、元才は親しい者だけを招き、ささやかな祝賀会を開いた。 そこに、皖も招かれたのである。
「公徳さま。御身に何かあったのかと案じておりました……ご無事で何よりです」
「公務が入ったのだ。遅れてすまん」
元才は皖を店の中へと丁重に案内した。 舅、李紘には男児がおらず、元才を養子として家督を継がせた。 それもかなり前の事になるのだが、この男は全くと言って良いほど歳が解らない。
「紅藍さま、子比さま、子珪さま。お揃いになられておいでです」
皖は頷き、部屋へ入った。 すると、微かに頬を朱に染めた張韻が真っ先に駆け寄る。
「公徳兄ぃ、遅い。折角の酒が温くなってしまったではないか」
「すまんすまん。……それで、このような人間を集めて何の話なのだ。元才」
皖は胡床に腰掛け、酒を運んできた元才に声をかけた。 元才はそのまま皖に酒を注ぐ。
「何もありませんよ。ただ、皆様方と一緒に酒の席を設けたかっただけです。これより先、皆様方が一堂に会する機会は減るでしょう。だから、せめて今日くらい……」
張韻、許衍はそれぞれ一軍を率いて戦線へ。そして郭翼は近県の太守として配置されて行く。 そうなるからには、滅多に顔を会わす事が出来なくなる。 戦友、悪友、親友として、寂しくなるだろうと、元才の心遣いには感謝した。
「深酒は出来ぬ。皆、明日は早いであろう」
皖が盃を持ち上げる。
「酒などすぐに抜ける。構わぬよ」
衍も盃を持ち上げる。
「一人、既に出来上がってるがね……」
呆れ顔の翼も盃を持ち上げる。
「出来てない。私は出来てないぞ。旅立つ事のない公徳兄ぃを酒浸りにしてやる」
韻も盃を持ち上げた所で、元才が音頭をとった。
「旅立つ方々、そして中央で帰りを待つ私達。それぞれに天帝の御恩恵がもたらされます事を祈って……」
干杯――
一時ほど経った後、店を出る頃になると、外はぱらぱらと雨が降っていた。
「傘を……」
と言う元才に、皖は手で制止する。
「構わぬ。たまには雨に濡れて帰るのも、悪くない……」
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