行ってきます、さようなら、お元気で .1



 がくんと崩れ落ちかけた少女の身体を、自分の腕の中へと引き寄せ、支える。そうして、彼は腕に力を込めて、彼女の耳元に顔を寄せた。


「……大丈夫です。だから、少しだけ、おやすみなさい」


 ゆっくりと、少女の身体から力が抜け切る。ぎゅっと唇を引き結び、彼は彼女を抱き上げた。さらり、綺麗な黒髪が、彼の動きに合わせて揺れる。


 研究室のソファーに彼女を寝かせたあと、彼はそのまま床に片膝をつき、静かな寝顔を見つめる。そんな彼の心の中で、感情が混沌と渦巻いていた。


(………こんなはずでは……)


 どこか空虚とも言える眼差しを、リンへと注ぐ。


(………こんなはずでは、なかった)


 まったくの計算外。予想もしていなかった。


 この目の前の少女が、自分の中で、“道具”から“一人の人間”へ、そして“大事な存在”になるなど。そんなこと、自分を含め、誰が想像しただろう。


 自分の中に、こんなに暖かくて切ない、不可思議な感情があっただなんて、誰が知っていただろう。


 感情は、理屈では決して説明できない ――― まさにその通り。完全なる誤算だった。致命的で、かつ、幸せな誤算。


(………しかし、もう遅い)


 後戻りできないところまで、クィレルは来てしまった。どうしようもできない。進むしかない ――― たとえ、先にあるものが何なのか、分かっていたとしても。


(………もし……)


 もしあのとき、かの人に出会わなければ。あの森に行かなければ。世界を旅行しようなど、思われなければ。


 そこまで思考を巡らせて、クィレルは自嘲気味に顔を歪ませた。何とも詮無きことを考えてしまった。過去に“もし”など、ありはしないというのに。


 ふるりと頭〔かぶり〕を振って、クィレルは立ち上がり、デスクへと移動した。椅子に腰かけて羽根ペンを持ち、真っ白な羊皮紙に文字を綴っていく。アルファベット一文字一文字に、想いを込めて書く。


 他の先生方は、期末試験の採点やら何やらと忙しい。試験明けの清々しいときに、どもりのクィレル先生をわざわざ訪ねてくる生徒などいない。


 ヴォルデモート卿は、いま、今夜の大きなイベントのために休息を取っている。この行動を邪魔する者、咎める者は誰もいない。


(………死ぬのは、恐くない)


 不思議と、心からそう思った。かのヴォルデモート卿は、それをひどく恐れているようだが、今のクィレルには理解できない(無論、昔のクィレルは恐れていた)。


(恐くはない……だが、つらい)


 死ぬこと自体は、恐くない。死ぬことではなく、そうして置いていってしまうことが、とてもつらい。彼女を泣かせてしまうことが、苦しい。そうさせる自分が不甲斐ない。


 そうは思っていても、どうしようもない。


(………もう遅いのだ)


 止められるだけの力が、自分にあればよかった。そうすれば、何かが変わってくれただろうに。そう思う度、己の愚かさと無力さを思い知る。


→ (2)


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