*さくっとですが、グロっぽい表現があります。苦手な方はご注意。*



 ぞっとするような冷気が、真っ暗な通路に満ちていた。その冷気がコンパートメントのなかへ入ってきて、友人たちが震えるのが見えた。リンも僅かに震える。明らかに、ただの冷気ではない。皮膚の下に深く潜り込んでくるような寒気だ……。

 ぐっと唇を引き結んで、リンは通路へと足を踏み出した。掌から離れた灯りが照らし出した影に、リンは息を呑んだ。

 そこにいたのは、マントを着た、天井までも届きそうな黒い影だった。後ろ姿に近い角度だから顔はよく分からないが ――― 顔はすっぽりと頭巾で覆われているようなので、きっと正面から見ていても何も見えなかっただろうが ――― マントから突き出している手は恐ろしいものだった。灰白色に冷たく光り、かさぶたに覆われた、水中で腐敗した死体のような手……。

 目の前に立っている“それ”が何か、リンは一瞬で理解して、思わず後ずさった。頭の中で警鐘が鳴り響く。スイの声にならない悲鳴が、リンの耳の中に反響する。

 “それ”は、ガラガラと音を立ててゆっくりと長く息を吸い込んだ。空気以外の何かが吸われていく感覚に、眩暈がした。

 バンバン叩く音が弱くなったのに気づいて、リンはハッとした。灯りを飛ばし、目を細めて“それ”の向こうを見る ――― 襲われかけているのは、ドラコ・マルフォイとセオドール・ノットだった。

 蒼白な顔、いまにも卒倒しそうな様子で、助けを求めて近くのコンパートメントのドアを叩いている。嫌われているから開けてもらえないのか、中の人も必死で開けたくないのか ――― きっと後者だ。

 急いで数歩前に出て、リンは杖を構えた。

「エ……クスペクト、パトローナム……っ!」

 杖先を“それ”に向けて呪文を唱えたが、出てきたのは霞だけだった。何度か試すが、有体の守護霊は一向に現れない。リンが焦燥に駆られていると、“それ”が不意に振り返った。どうやらリンに気づいたらしく、マルフォイとノットから標的を変えたのか、リンへと手を伸ばしてくる。

 息を呑んだリンは、後ろにさがろうとして、誤ってローブを踏んでしまい、通路に尻餅をついた。その弾みで、スイがリンの肩から転がり落ち、彼女から離れたところまで転がっていった。

 慌てて駆け寄ってこようとするスイに「そこにいろ」と怒鳴り、リンは身体に渾身の力を込め、立ち上がろうとした。

 しかし、リンが体勢を立て直す前に、“それ”は一気に距離を詰め、リンの頭上に覆い被さってきた……そして、リンの中で、恐ろしい感覚が蘇った。

 網膜を焼き尽くすかのような白い閃光。耳をつんざく激しい雷鳴。焦げた匂いと血の香り……。

「 ――――――― っ!!」

 声にならない悲鳴が口から漏れる。リンの目が恐怖に見開かれ、そして、その目が不意に金色に輝いた。

 ぶわり、空気がうねった。通路に満ちていた冷気が、一気に集結して“それ”に突き刺さる。金属を削るような音が通路に響き、“それ”はザーッと後退して、暗闇の中へと退却していった……。

 リンが呆然としていると、列車のなかに明かりと暖かさが戻り、ゆっくりと汽車が動き出した。相変わらず列車内はシンと静まり返っていたが、それでもだいぶ気分は回復してくる。

 マルフォイとノット、スイが、長く息を吐き出して身体の力を抜いた。同じように安堵の息を吐き出し、リンは身体に力を入れて、静かに立ち上がる。

「………リン? 終わったの? 無事……?」

 恐々とした声が、コンパートメントのほうから聞こえた。ベティとジャスティンを筆頭に、みんながドアから顔を覗かせていた。リンは気力を振り絞って口角を上げてみせた。

「なんとかね……それより誰か、チョコレート持ってない? できれば三つ」

「あります!」

 真っ先に返事をしたのはジャスティンだった。ほかのメンバーの間をすり抜けて自分の座席の方へ引っ込んだかと思うと、すぐに再び顔を出した。

「蛙チョコレートでよろしければ……」

「充分だよ。ありがとう、ジャスティン」

 まだチョコがあるのなら全員で食べるよう言って、リンは振り返り、まずスイを回収した。埃などを払ってやってから、彼女を腕に抱え、チョコレートを与える。それからマルフォイとノットを振り返った。

 彼らの気力は、なんとか回復したらしい。マルフォイはまだ座り込んでいるが「なんで僕がこんな目に……」などと、ひどく弱々しいものの悪態をついているし、ノットの方は、壁に手をついて、ゆっくりと立ち上がっているところだった。

 リンは彼らに歩み寄り、蛙チョコレートを差し出した。

「よければどうぞ。吸魂鬼〔ディメンター〕に出くわしたあとは、チョコを食べるのが一番だから」

 ノットは呆然と、マルフォイは苦々しい表情で、リンを見た。二人とも無言だ。受け取ろうとしない二人に、リンは首を傾げた。

「……未開封だから、毒とかは入れられてないはずだけど」

「…………」

 なんとも言えない顔をして、マルフォイはさらに黙り込んだ。「言うセリフがなんでそれなんだ」と心のなかで突っ込んでいるらしいのが、スイには分かった。ノットのほうは、ただじっとリンを見つめている。

「………おまえこそ食べればいいだろ」

 しばらくの沈黙のあと、マルフォイが言葉を発した。スイが一種の感心めいたものを覚えるのをよそに、リンが言う。

「いや、君たちのほうが顔色悪いから、お先にどうぞ」

 ポイッと、リンは、蛙チョコレートを二つまとめてマルフォイへと放り投げた。マルフォイは目を剥いて慌ててキャッチした。

「……さすがシーカー。ナイスキャッチ」

「当然だ……じゃない! おまえ、食べ物を投げるな! どういう神経してるんだ?」

 パチパチと拍手するリンに、マルフォイが眉を吊り上げる。肩を竦めるリンの腕のなかでチョコを頬張りながら、スイは「さすが坊……礼儀作法にはうるさい」と感慨を抱いた。

「じゃあ、帰り道、気をつけて」

「な……っ、おい! 待て、ヨシノ!」

 ひらりと手を振ってコンパートメントに戻ろうとしたリンを、マルフォイが引き止める。リンは立ち止まって再び首を傾げた。

「なに?」

「ぼっ、僕たちを助けたと思って、いい気になるなよ!」

「……? 私、君たちのこと助けてないよね?」

「は?」

 マルフォイがポカンと口を開ける。こういう顔は年相応かつ、生意気じゃなくて可愛いのに……と、スイは場違いなことを思った。リンのほうは、マルフォイが唖然とする理由が分からなくて呆然とする。

「だって私、結局は自己防衛で吸魂鬼を追い払っただけだし……助けてはない、よね?」

 同意を求めて、リンはスイを見た。スイは肩を竦めて首を横に振る。リンは数回瞬きを繰り返したあと、困ったように笑った。

「えーと……まぁ……私としては、君たちに恩や貸しを作ったつもりはない、かな」

 というわけで、ちゃんとチョコレート食べてね。

 強引に話を締め、リンは、穴が開くのではないかと思うほどに自分を見つめてくるマルフォイとノットにもう一度手を振って、また引き止められる前にと素早くコンパートメントの中へ滑り込んだ。

 一部始終を聞いていたメンバーは「せっかくなんだから貸し一つくらい作っとけばいいのに」と大いに残念がった。苦笑するリンの肩から座席へと移り、スイは尻尾を一振りした。

3-3. 吸魂鬼
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