| さて、いつ話を切り上げて帰ろうか。
算段するリンの周りを、マートルはプカプカ、まるで水に浮かんでいるように(きっとそうイメージしているのだろう)漂っている。
「私、どれだけ考えても、死がどういうものなのか分からないわ……だって私、自分が死んだときすら、よく分からなかったんだもの……」
「え?」
はたと、リンは意識をマートルに向けた。じっとマートルを見つめて、首を傾げる。
……そういえば、マートルには疑問がいくつかある。「なぜトイレに取り憑いているのか」「学生なのに、どうして死んだか」など、様々だ。
見たところ、「ほとんど首無しニック」のように死因の外傷があるわけでもない。学校の制服を着ているため、寿命で……というわけでもなさそうだ。
じゃあ、何が彼女を死なせたのか……? リンはちょっと好奇心が湧いた。
「……あの、マートル、もし君が嫌じゃなければ、君が……その、死んだときの様子が聞きたいんだけど、だめかな?」
リンが遠慮がちに頼むと、マートルはたちまち顔つきを変えた。失礼な質問に怒っている ――― わけではなく、むしろ、こんなに誇らしく嬉しい質問をされたことはないという顔だった。
「オォォォォゥ、怖かったわ……そして、一瞬だった……」
ぶわりと膨れ上がったマートルは、リンを中心にして円を描き、リンの前へと移動した。たっぷりと恐怖を味わうような声を出し、リンの顔を分厚い乳白色のメガネ越しに覗き込む。
普通の人間なら飛び退くところだが、リンは静かにマートルを見つめ返した。それがどういうわけか、マートルの機嫌をさらに良くしたらしい。マートルはいつもと少し違う調子で饒舌になった。
「まさにここだったの。この小部屋で死んだのよ。ええ……よく覚えてるわ。オリーブ・ホーンビーが私のメガネのことをからかったから、ここに隠れてたの。鍵をかけて泣いていたら、誰かが入ってきたわ……何か変なことを言ってた。外国語、だったと思うわ……」
マートルは学生時代から陰気な性格だったのか。なんて思いつつ、リンは黙って彼女の話を聞いていた。誰かが言っていた「変なこと」というのが若干気になったが、マートルが絶え間なく喋り続けているので、あとにすることにした。
「とにかく嫌だったのは、喋ってるのが男子だったってこと。分かるでしょ? だから私、出ていけ、男子トイレを使え、って言うつもりで、鍵を開けて、そして ――― 」
マートルは偉そうに反〔そ〕っくり返って、リンが ――― そしておそらく彼女を知っている(もしくは知っていた)誰もがいままで見たことがないほど、顔を輝かせた。
「 ――― 死んだの」
「……どうやって?」
わけが分からない気持ちで、リンが聞いた。姿を見せただけで人間が死ぬなど、あり得ない。困惑するリンに、マートルも「分からない」と声を落とした。
「覚えてるのは、大きな黄色い目玉が二つ。身体全体がギュッと金縛りにあったみたいで、それから、ふーっと浮いて……」
マートルは自分の言葉に合わせて「ふーっと」浮き上がったあと、怪訝そうな表情をしているリンを、夢見るような目で見下ろした。
「そして、また戻ってきたの」
「その目玉は、正確にはどこで見たの?」
リンが尋ねると、マートルは小部屋の前の手洗い台の辺りを漠然と指差す。リンがそこに近寄ろうとしたときだった。
「やっぱりここにいた!」
トイレのドアが勢いよく開けられ、ベティが荒々しく入ってきた。眉を吊り上げて、腰に両手を当てて、リンを睨みつけている。
マートルが不機嫌そうな顔に戻り、天井のほうへと浮上した。リンは肩を竦める。
「楽しいお喋りの時間を邪魔してくれて、どうもありがとう」
「アンタが楽しんでる間に、ハンナが『リンが戻ってこないわ! ひょっとして襲われたんじゃないかしら!』って半狂乱になってんのよ、このバカ!」
楽しい? 冗談でしょ! という顔をしたベティに笑う暇もなく、リンは溜め息をつかざるを得なかった。マジかと目で尋ねると、大マジという視線が返ってくる。
「いまスーザンとアーニーが必死に宥めてるけど、これ以上騒ぎ立てたら先生方まで出てくるわよ」
「ほかの生徒が騒ぎ出さないようで嬉しいよ」
「ええ、安心してちょうだい。もう充分に騒いでくれてるから、新しくは出てこないわ」
リンは天を仰いで、再び深々と溜め息をついた。なんとも面倒なことになった……ちょっと失敗したかと反省する。今度はもっと上手く抜け出そう。
「……あー……じゃあ、ごめんマートル。また今度」
「ええ……今度は一人で来てちょうだい」
一瞬ベティと睨み合ったあと、マートルはお気に入りの個室へと帰っていく。水音を聞きながら、リンは大層ご立腹のベティとトイレをあとにした。
「なんでわざわざ嘘ついてまであそこに行くわけ?」
「嘘? そんなものついてないよ。あそこだって『お手洗い』だし」
「アンッタねえ!」
「そうだ、ベティ、みんなに伝えてくれる? トイレに流すべきでないものを、流そうとしないでくれって」
寮の入口である樽山の前で、リンは言った。は? と呆然とするベティを置いて、リンは目当ての樽の底を二回叩き、騒がしい談話室へと入っていった。
2-16. 「嘆きのマートル」の物語
**** マートルとは意外と仲がいい方。 なかなかひどい印象を持ってるけど、表には出さないから、仲良くいられる。というか、気に入られている。 でも、リンだって、けっして、きらいなわけではないんだ。
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