「 ――― フィルチがブチギレて、ダンブルドアに抗議した?」

 ある日の夕方近く、談話室で課題を片付けていたリンは、ベティが持ってきたニュースに目を瞬かせた。

「今度は何があったの? 事務所が爆破されでもした?」

「んー、残念ながら、そういうことではないのよね」

 冗談混じりのリンの言葉に、ベティは羽根ペンの先をいじりながら笑った。ハンナとスーザンが、咎めるような目を二人に向けてくる。しかし二人とも無視した。

「昨日の夜、『嘆きのマートル』がまた癇癪を起こしたみたいよ? それで、三階の廊下が水浸しになっちゃって」

「その結果、哀れなフィルチは一晩中モップをかける羽目になった、と。なるほどね」

 レポートの文末にピリオドを打ちながら、リンは頷いた。

 それは、キレるのもわけはない。魔法ならすぐに終わっただろうが、マグル式のやり方となると、相当な労力を費やすことになっただろう。

 一瞬だけフィルチに同情したあと、リンは羽根ペンをくるりと指先で回して、ベティを見た。ベティは、ちょうどアーニーから羽根ペンを借り(奪っ)たところだった。本人の羽根ペンはどうも調子がよくないらしい。

「フィルチはともかく、マートルはどうしたの?」

「知らないわよ。また誰かに陰口でも言われたんじゃないの?」

 ベティはそう言って、羊皮紙の上に文字を殴り書き始めた。四十センチというノルマを「効率よく」達成するためか、アルファベット一文字一文字がやけに大きい。

 スーザンが眉を吊り上げる横で、アーニーがベティの羽根ペンで四苦八苦していた。

 見かねたリンは、苦労人な友人が持つ羽根ペンのてっぺんを、杖で軽く叩いた。途端、インクがスムーズに出るようになる。アーニーが歓声を上げてリンに礼を言った瞬間、ベティが再び羽根ペンを交換(奪取)した。

 スーザンとアーニーが声を上げるのと同時に、リンは静かに立ち上がった。はらはらと三人を見ていたハンナが振り向いて、きょとんとする。

「リン? どこかに行くの?」

「お手洗い」

 さすがのハンナも、黙ってリンを見送った。ハンナも三人(二対一)の言い合いに参加するのを背中越しに聞きながら、リンはさっさと談話室を出た。

 階段を上り、廊下を渡り、リンは目的地に着いた。いつも通り「故障中」の掲示を無視してドアを開け、中に入った。

 相変わらず陰気なトイレだ。たぶんホグワーツで一番だろう。そんなことを考えながら、リンは一番奥の小部屋まで歩いていく。個室の扉の前で立ち止まって、リンは「こんにちは」と声をかけた。

 便器のなかの水が波打った。さすがに気泡は出て来ないかと思うリンの前に、「嘆きのマートル」が大量の水を零しながら姿を現した。

「やぁ、マートル。久しぶり」

 朗らかに挨拶するリンに、マートルは「本当にね」と皮肉っぽく返す。リンは肩を竦めるだけの返事をした。

 慰めや言い訳といった類の言葉は、マートルには通じない。そのことを、リンは初めて彼女に会ったときに知っていた。

 情緒不安定というか、自意識と被害妄想が激しいというか。扱いが面倒な奴だとリンが内心思っているのを知らずに ――― 知っていたら、もっと違う態度を取るだろう ――― マートルはスルスルとリンに寄ってきた。

「それで? 今日は何の用なの?」

「昨日の夜、君が災難に見舞われたって聞いて。様子を見に来たんだ」

 未だヒステリックに騒いでいられると、生徒の精神衛生がよくないから……という旨は完全に伏せておく。

 リンの言葉に、マートルは少しだけ笑顔を見せた。心配されたと思っているのか、嬉しがっているみたいだった。

「昨日はひどかったわ……私、ここで誰にも迷惑をかけずに過ごしてるのに……」

「そうだろうね」

「ええ……そう……それなのに、私に物を投げつけておもしろがる人がいたのよ」

「それはひどいね」

 ゴーストに物を投げつけるなど、そんな愚かしい行為をする者がいるとは。どうかハッフルパフの生徒じゃありませんように……と、リンは心の中で祈った。

 難しい顔をしているリンの周りを、マートルがふわふわ回る。

「あのとき私、U字溝のところに座って、死について考えてたのに……邪魔されたわ」

「ああ……死か。深い問題だよね」

 哲学の最後の扉とも形容されるもの。相当 ――― 人間が一生かけて考え、そしてゴーストになっても考えるほど、奥が深い。

 それ故、きっと答えなど出ないだろうと、リンは思っている。つまり、考えるだけ無駄だと。

 それに時間を費やす「嘆きのマートル」に、リンはある種の感服の念を抱いた。なんとも暇人な……ああ、死んだ者というのは大概、暇を持て余しているものか。リンはそんなことを思った。


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