クィディッチ・シーズンがやってきた。

 最初の試合はグリフィンドール対スリザリン戦なので、みんな興奮していた。グリフィンドールがスリザリンをペシャンコに負かしてくれるのを期待しているのだ。

 今年はとくにその期待が大きい。ドラコ・マルフォイが、チーム全員に高級箒を買い与えてシーカーになったからだ。要するに、金にものを言わせたマルフォイが許せないわけだ。

「箒がものを言うか、乗り手が勝るか……とても見物じゃない?」

 リンの肩からぶら下がっているスイが、リンに話しかけた。ちなみに、彼女らは観客席には行かず、階段の途中のところで観戦している。

「…………」

 無言のリンの視線の先には、ブラッジャーにつきまとわれているハリーがいた。暴れ玉の攻撃から、必死に逃れている。

 通常、ブラッジャーは多くの選手を箒から振り落とそうとするものだ。しかし、あのボールだけ、試合開始直後からハリーだけを狙っている。

 誰かが細工したのだろうか? リンが眉を寄せる先で、グリフィンドールの双子がブラッジャーからハリーを守ろうと頑張っている。

 しばらくして、ついにグリフィンドールがタイムアウトを要求した。

「勝敗の前に生死に関わると思う。ねえ、どうにかできない?」

 スイがリンを見上げる。リンは少し逡巡し、溜め息をついて肩を竦めた。何やかやと、リンは、スイの頼みは無碍〔むげ〕にできないのだ。

 目立つことはしたくないが、仕方ない。リンが腹を括ったとき、上から悲鳴が上がった。ブラッジャーがハリーの腕を強打したのだ。スイは瞬時に顔色を悪くした ――― 予定よりも早い。

「リン、早く!」

「……分かってるよ」

 試合再開後もハリーだけを狙って攻撃しているブラッジャーに、リンは意識を集中させた。一瞬、リンの目が金色に輝いた。



 それからは、あっという間の出来事だった。

 突然“正常”に戻って暴れ始めたブラッジャーに驚きつつも、ハリーは、マルフォイの左耳の近くにいたスニッチを、折れていないほうの手で捕まえた。試合終了 ――― グリフィンドールの勝利だ。

 チームメイトに囲まれる彼を見届けて、リンは階段を降り始める。いつまでもここにいたら、上で足音を立てている大勢の観客の群れに呑み込まれかねない。

 地面に足をつけると、グラウンドのほうで悲鳴が上がった。……あとで知ったのだが、このとき、ロックハートがハリーの腕の骨を抜いてしまったらしい。


**


 その日の夜、リンはどうしてか眠る気になれなくて、談話室で本を読んでいた。

 ほかの生徒たちは、興奮覚めやらぬままにベッドへと行ってしまった。静まり返った談話室に、スイの寝息と本のページを捲る音だけが響く。

 本を半分くらいまで読み進めたとき、小さな物音がした。

 リンは顔を上げ、パチリと瞬いた。そこにいたのは、背の高い黒髪の男子生徒 ――― セドリック・ディゴリーだった。

「……やあ、リン」

「……こんばんは、ディゴリー」

 どうしたのかと尋ねると、彼は「寝付けなくて」と返した。

 彼もクィディッチではシーカーのポジションだ。今日のハリーのプレイに何かしら思うところがあるのだろう。

 そう結論付けるリンのほうへと歩み寄り、セドリックは彼女のそばに立った。リンは不思議そうに彼を見上げる。セドリックは深く息を吸い込んだ。

「……ずっと、お礼が言いたくて。でも、なかなか言い出せるチャンスがなくて。でも、その、いまなら言えると思って」

「……お礼……?」

「ほら……去年の冬、クィディッチで」

「……ああ、あれ……べつにたいしたことしてませんよ。勝ったのはあなたの実力です」

 だからお礼など言わなくていいと言うリンに、セドリックは頭を振った。

「君の言葉がなかったら、あんなにいいプレイはできなかったと思う」

 だから、ありがとう。

 そう口にする彼の目があまりに真っ直ぐだったので、リンは素直に受け取っておくことにした。

 それきり二人とも何も言わなくなり、談話室の中に沈黙が流れる。だが、前と同じくそんなに気まずさを感じない。そう感じつつ、セドリックはリンを見つめた。

 前に対面したときより、また少し大人びたように思われた。物静かで落ち着いた、繊細な女の子という印象が、ますます強くなっている。

 そんな見かけとは違い、実は大雑把で意外と感情的で、少し毒舌で腹黒いところがあることも、当然セドリックは知っている。しかし、そんなアンバランスさも彼女の魅力だと思えるのだから不思議だ。

 リンを見つめるセドリックの目が、ゆっくりと柔らかく細められていく。リンは居心地が悪そうに身じろいだ。はたとそれに気づき、セドリックは瞬きをして、視線を微妙に逸らした。

「……ええと、もう遅いし、僕は寝るよ」

 リンは小さく頷いた。セドリックはリンに挨拶をしたあと、踵を返して自分の部屋へと帰っていった。

 再び誰もいなくなった談話室で、リンは読書を再開した。すぐに本の内容に吸い込まれていく。

 今度は邪魔されることなく順調に読み進めていき、残っていた半分のさらに半分まで読み終えたときだった。

 部屋の隅でパチッと大きな音がした。

 リンは顔を上げ、息を詰める。小さな生物がそこにいた。

 耳はコウモリのように長く、ギョロリと飛び出した緑の目はテニスボールくらいの大きさだ。ドロドロに汚れた古い枕カバーのようなものを身にまとっている。

「リン・ヨシノ!」

 その生物がどことなく聞き覚えのある甲高い声を出したので、リンは、彼(たぶん彼で合っていると思う)が屋敷しもべ妖精だと気づいた。

「こんばんは……君はどちら様?」

「ドビーめにございます。ドビーと呼び捨ててください」

 絨毯に鼻の先がつくほどに、ドビーは低く深くお辞儀をした。リンは少し居心地が悪く感じた。無駄だろうなとは思いつつ、リンは彼に言う。

「ドビー、お辞儀なんてしなくていいよ。もっと楽に……とりあえず、適当に座って」

 リンが椅子を指差して言うと、ドビーはわっと泣き出した。 スイが起きてしまうのではとリンが心配するほど、うるさい泣き方だった。

「す ―― 座ってなんて! そ ――― そんな言葉を、また聞けるなんて!」

 喉を詰まらせるドビーをなんとか宥め、リンは彼を椅子に座らせた。

「ごめんね、君の気に障ることを言うつもりはなかったんだけど……」

 ドビーは首を横に振った。耳がパタパタと音を立て、涙がそこらに飛び散った。

 しばらくすると落ち着いてきたようで、ドビーはリンを見上げた。大きな目はまだ潤んでいる。

「リン・ヨシノは、ハリー・ポッターと同じことをおっしゃる……なんてお優しい方……偉大な方……」

 リンは自分の顔が色づくのを感じたが、それよりも気になることがあった。リンはドビーを刺激しないよう、慎重に言葉を選んだ。

「ねぇ、ドビー。君……その、ハリーに会ったの?」

 ドビーの表情が凍りついた。石化呪文でも食らったかのようだった。彼はその場に硬直したまま、恐々とリンを見つめる。そして、そっと口を開いた。

「ドビーは……ドビーは、リン・ヨシノに警告を申し上げるために参りました……ハリー・ポッターと同じ警告を……」

 屋敷しもべ妖精は大きく身震いした。さらに声を落とし、囁く。

「罠でございます、リン・ヨシノ。ホグワーツで世にも恐ろしいことが起きている……あなた様はここにいてはいけません。歴史が繰り返されようとしているのです……」

「……『秘密の部屋』について言ってるの?」

「ああ、お聞きにならないでくださいまし。哀れなドビーのために、もうお尋ねにならないで」

 ドビーは零れ落ちそうなほどに目を見開いて、口ごもった。

「恐ろしい闇の罠がここに仕掛けられているのです。それが起こるとき、リン・ヨシノもハリー・ポッターも、ここにいてはいけない……お二人は関わってはいけないのです。危険すぎます!」

「ちょっと待って。ハリーは分かるけど、どうして私まで、」

「リン・ヨシノ!」

 どういうことかリンが聞こうとすると、ドビーは性急にリンに詰め寄った。あまりに急に近寄られたので、リンは言葉も息も呑み込んだ。

「お気をつけくださいまし、リン・ヨシノ。けっしてお一人で行動なさらないで」

 そのときこそ、貴方様は狙われる ――― そう言い残して、ドビーはパチッと音を立てて消えてしまった。リンが咄嗟に伸ばした手は、空を掴んでいた。

「……闇の罠……?」

 リンの呟きは、夜の静寂に呑み込まれた。

2-9. 狂ったブラッジャー
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