新学期が始まって最初の週も、ようやく半ばを過ぎた。二年生になって初めての変身術の授業を終え、リンはいつものメンバーと一緒に廊下を歩いていた。

「始まったばかりなのに宿題を出すなんて信じられない」

 足音荒く歩くベティがそう愚痴った。彼女は先程の授業で、ボタンに変えるべきコガネムシを派手に爆発させ、マクゴナガルに叱られ宿題を言いつけられたばかりだ。

 まったく納得がいかないといった様子のベティを、苦笑気味のスーザンが宥めにかかる。

「あの結果じゃ仕方ないと思うわ」

「好きで爆発させたわけじゃないわよ!」

 そりゃそうだとリンは思った。無機物ならともかく生き物(しかも昆虫)を目の前で爆発させる趣味は、彼女にはないだろう。

「でも、いったいどうしたんだ? そんなに難しい課題じゃなかったと思うけど」

 一番前を歩いていたアーニーが、ベティを振り返って尋ねた。ハンナとスーザンも頷いてベティを見る。アーニーの隣を歩くジャスティンだけは、ほかの三人と違って、彼女に興味を持っていないようだった。階段の踊り場の壁にある絵画を眺めている。

 三人ぶんの視線を受けたベティは、階段を上りながら器用に腕を組んで鼻を鳴らした。

「しょうがないじゃない。生き物苦手なんだから」

「答えてるようで答えになってないよ、それ」

 呆れた様子のアーニーのローブを、不意にジャスティンが引っ張った。

「そんなことより、アーニー、あそこの絵画、何だと思う?」

「アタシの高尚な悩みを『そんなこと』扱いすんじゃないわよ、そこのカール頭」

「湿気によって膨張するような髪を持つ君の頭のなかに『高尚』なんて言葉があるなんて驚きだよ」

 ジャスティンの毒のあるセリフに怒ったベティがわめき出し、それをスーザンが宥め、アーニーがジャスティンに注意して、ハンナはおろおろと見守っている。毎度毎度よくやるやつらだ……リンは呆れた。

 不意にリンは、階段の上方へと目を向けた。

 リンたちより一階ぶんほど上のところを、何人かの生徒がなにやら興奮した様子で話しながら進んでいる。ローブが真新しいから新入生だろう。

 彼らの行く手には、この階段の名物(?)消える一段があるのだが、果たして彼らは知っているだろうか……いや、たぶん知らない。

 何か起こると面倒なので、事前に注意しておこう。そう判断して、リンは口を開いた。

 しかし、リンが声を出す前に、彼らから悲鳴が上がった。リンは瞬時に駆け出し、咄嗟に超能力も発動させた。

 集団が見えない何かによって左右に掻き分けられ、一人の男子生徒が落ちそうになっているのが見えた……階段を駆け上りながら、リンは意識を集中させた。

 一瞬の後、困惑したような気の抜けた声がした。

「……へ……?」

 ふわふわと浮く、丸い水晶玉のようなもの。そのなかに入った男子生徒がきょとんとしていた。何が起こってるんだろう? と顔に表れている。水晶玉もどきはリンにしか見えないため、彼がひとりでに浮いているように思えるのだろう。

 リンは息をついた。集団に近づきながら、ゆっくりと衝撃を与えないよう彼を降ろしにかかる。彼の足が階段につくと、水晶玉もどきは弾けるようにして消えた。

「……大丈夫?」

 少年に近づいて声をかけると、彼は飛び上がって振り向いた。薄茶色の髪が揺れる。

「あ……えっと、あの」

「怪我とかない?」

「は……はい」

 落ちそうになった恐怖からか、先輩に話しかけられた緊張感からか、少年はぎこちなく頷いた。怖がらせたかと心配になるリンを、少年がおずおずと見上げてきた。

「あ、あの……いまのって、あなたがやったんですか?」

「ここの階段は、もとから一段消えるけど」

「えっと、そうじゃなくて……その、僕が落ちないで浮いたことです」

「……ああ、うん。それは私がやったけど」

 何か問題でもあったかなとリンは首を傾げる。少年はポカンと口を開けて、まじまじとリンを見つめてきた。……いったい何だろうか。

 なんかこの少年、掴みづらい。そう思っていると、ハンナたちが階段を駆け上ってきた。先頭のハンナがリンに飛びつく。

「リンっ!」

「……ハ、ハンナ? どうした?」

 とりあえずハンナを受け止めたものの、そのままヒシッと抱きつかれたリンは困惑した表情を浮かべる。いったいどうした。

 疑問を感じるリンに、今度はベティが突進してきた勢いのまま詰め寄ってきた。

「いきなり駆け出さないでよ! ビックリしたじゃない!」

「ごめん。君たちに声をかけてたら間に合わないと思って」

 苦笑交じりに謝るリンに、スーザンが溜め息をついた。

「もう、何事かと思ったわ……ハンナなんか、あなたがベティとジャスティンのケンカに愛想を尽かしたのかもって思っちゃって」

「……なるほど」

 だからハンナがリンにしがみつき、ジャスティンがアーニーの影に隠れながら恐々とリンを窺ってくるのか。納得すると同時に呆れる。

 二人のケンカなんて、もう何を言っても仕方がないと割り切っている。それをどうしてそんな風に勘違いするのか……リンには、ハンナの思考回路がどうなっているのか分からない。

 溜め息をついてハンナの頭を撫でつつ、リンは少年へと視線を戻した。彼はリンと目が合うと肩を跳ねさせる。……その割に目が輝いているように見えるのは何故だろうか。

 深く考えないことにして、リンは彼に笑いかけた。

「もうすぐベルが鳴るから、急いだほうがいいよ」

「え……っあ、はいっ!」

「そこの一段は消えるから気をつけて……ほかの子もね」

 集団全体を見渡してリンが言うと、みんな勢いよく頷いて、一段を慎重に越えたあと廊下を走っていった。

 それを見届けたあと、リンはベティたちを振り返った。

「……私たちも行こうか」

 次の授業は何だったか……歩き出しながら記憶を手繰って、思い当たったとき、リンは顔を歪めた。


**


 教室に入ると、ほかのハッフルパフ生はみんな席に着いていた。

 どうやらリンたちが最後らしい。だがベルはまだ鳴っていないからセーフだろう。そう判断して、リンは席のほうへと進む。ハンナたちもそろそろとついてきた。

 教師は教室の前方を行ったり来たりしていて、リンたちに気づいた様子はない。リンがわざと足音を立てて歩くと、彼はようやく顔を上げた。

「おや、最後の数人のお出ましだ! さあ、席に着いて! 時間が惜しいですからね」

 ロックハートは輝く白い歯をリンたちに見せつけてウインクした。ベティが吐くような仕草をしたのを、リンは彼女の正面を歩くことで隠した。

 そのまま空いている席 ――― 前のほうしか空いていないが ――― に腰を下ろして、教科書を七冊全て机の上に積み上げた。これでロックハートの顔を見ずに済む。

 全員が座ったことで、ロックハートは大きく咳払いした。そのまま生徒のほうへやってきて、ハンナの持っていた「狼男との大いなる山歩き」を取り上げ、高々と掲げた。

「私だ」

「だから何」

 ベティが吐き捨てたが、それを予測していたスーザンが何度か咳をして上手く誤魔化した。おかげでロックハートは気づかず、上機嫌にウインクしながら話を続ける。

「ギルデロイ・ロックハート……勲三等マーリン勲章」

 ここで「自慢するなら一等もらってからにしなさいよ」とベティが毒づいたが、またもやスーザンが咳で誤魔化した。

「闇の魔術に対する防衛術連盟名誉会員、『週間魔女』五回連続『チャーミング・スマイル賞』受賞 ――― もっとも、私は今日そんな話をするつもりではありませんよ。バンドンの泣き妖怪バンジーをスマイルで追い払ったわけじゃありませんしね!」

 ベティが「当たり前だっつの!」と机の脚を蹴ったが、今度はアーニーが羊皮紙の束を「うっかり」床にばら撒くことで誤魔化した。

 ロックハートは何を思ったのか、愉快そうに笑った。自分の言葉がとてもおもしろいユーモアとして生徒に受け入れられたとでも思っているのだろうか……。ポジティブにも程がある。

 生徒の反応にどうして気がつかないのか。疑問を通り越して呆れるしかない。

 自分の著書の拾い読みを始めたロックハートを興味なさげに眺めたあと、リンは、本の山に隠れるようにして羊皮紙を広げる。

「……リン? 何やるの?」

「魔法薬学のレポート」

 右隣に座っているスーザンの質問に簡潔に答えると、彼女は何度か瞬きを繰り返してリンを見つめた。しかし、彼女は何も言わず、むしろリンに倣〔なら〕って羊皮紙を取り出した。ちなみにベティは早くも夢の世界へと旅立っている。

 ロックハートは生徒の間を歩き回っている。余程のことがない限り、あまりほかの生徒がいない前方には来ないだろう。

 ピクシー小妖精もろくに片付けられない奴が「異形戻しの術」なんてかけられるはずがない。そもそも、そんな術で狼男がヒトに戻れるわけがない。馬鹿馬鹿しい。

 心の中で悪態をつきながら、リンは魔法薬学の世界へと入っていった……。

2-5. 後輩と新しい教師
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