「……学生時代に『憂いの篩』に似た魔法陣がほしいと言ったのも、ときどき記憶をほしがったのも、このためか……死んでからも余計な世話を焼きやがって……」

 壁にもたれ片膝を立て片膝を伸ばす形で座り込んだナツメが、膝に肘をつけて掌を額に当て、どことなく力ない声で呟いた。

 現在に戻ってきたのだと理解するのに少し時間がかかった。数秒かけて理解して、リンは少しかすれた声で「母さん」と呟いた。ナツメが顔を傾けて、顔にかかる髪の隙間から目を向けてくる。いつもと同じ、感情の読めない目だ。

「………、」

 どんな言葉を発したらいいのか分からなくて、リンは困ってしまった。ナツメが停滞を不快に思うまえに端的に言わなければいけないとは理解しているが、ほんとうに言葉に迷う。というより緊張するというか……言葉を受け取ってもらえないのが怖いのかもしれない。

 爪が手のひらに食い込む痛みを覚えたとき、スイがリンの頬に触れてきた。同時に、スイが乗っていないほうの肩に、誰かの手が置かれた。

「言ってごらん、リン」

 透き通る青い目が、リンを映して柔らかく細められた。ポンと温かい手が頭に触れる。ビルが首をかしげて、赤い髪がさらりと揺れた。

「ずっと聞きたかったことがあるんだろう? 言うなら今だよ」

 玉砕したらみんなで慰めるから、ほら。柔らかい声で言って、ポンと今度は背中を軽く押される。一瞬いろいろと考えようと試みて、すぐ諦めて、リンは顔を上げた。ナツメの黒い目を見つめる。

「……私のこと、きらってないですか?」

 ナツメの目がかすかに見開く。しかし返答はなく、沈黙が降りる。リンが恐怖と若干の羞恥を感じはじめたとき、またもやポンと頭に体温が触れた。

「参考までに言っておくけど、リンは貴女のことが好きだよ」

 まっすぐにナツメを見つめて、ビルが言った。

「正直、俺の周りはみんな貴女のことを悪く言ってる。まぁさっきの映像で、貴女が冷淡かつ人間嫌いで協調性のまったくない自己中心的で攻撃的な性格になった背景は分かったけど」

 勇者かこいつ。もしくは命知らず。冷や冷やするスイには当然気づかず、ビルは淡々と言葉を続ける。

「でも今まで、その背景を知るまえから、リンは貴女のことを慕ってた。『どんなに悪口を聞いたとしても、本人からきちんと優しくされれば、心の底からキライにはならない』……そんな価値観を持ってるリンが貴女のことを好きってことは、リンには貴女から優しくされた記憶があるってことだ」

 だろう? と問いかけるように、透き通る青い目が再びリンを見た。優しくされた記憶。リンの脳裏に一つの記憶が浮かぶ。

「……一度、褒めてもらったことがあります」

 どんな経緯だったかは忘れたが、お絵かきで薬草を描いたとき、それをナツメに見せたことがあった。気まぐれかは分からないが、わりと真剣に眺めたあと『……上手いな』と言ってもらったのを、よく覚えている。

「それ以来、母さんの薬草メモの挿絵を描かせていただいたりして、役目をもらった気がして、うれしかったです」

 それ以外にも、小さいころは、たとえば怪我をしたりしたときに気にかけてもらった覚えがある。『怪我せずに済むよう頭を使え』と指弾を食らったのち治癒されるというものではあったが、わざわざ治してくれるのがうれしかった。

「機嫌が悪いときは別だけど、基本的に私が話しかけることも近寄ることも許してくれてるし、たぶん心底キラわれてるわけではないって、期待してました」

「……馬鹿か」

 呆れたようなため息をナツメが吐き出した。すかさずシリウスが「健気って言え」と返した。「だいたいおまえが、」「うるさい黙ってろ」「うぐ……っ」と続き、シリウスが腹を押さえてうずくまった。何やら腹部にダメージを食らったらしい。ナツメはナツメで、顔を隠すようにうつむいて、深いため息をついた。

「……自分を優先すると決めたんだ」

 淡々とした、しかし苦々しさをかすかに含んだ声が、静かにこぼれ落ちた。

「自分の好きなように、望むままに、何にも縛られず。それが私の定義した『生きる』という言葉の意味。そんな風に生きてるやつを、なんでわざわざ……」

 言葉を途中で切って、ナツメは再びため息をつく。それから数秒して、ようやくナツメが身じろぎ、リンへと視線を向け、口を開いた。

「……気に食わなかったり心底どうでもいいやつなら、わざわざ家に置かない」

 いかにも不本意といった不機嫌顔だった。なんでそんなにツンが強いんだ……というか、その程度の言葉じゃ返答にも解決にもならない。そう心のなかで毒づくスイの横で、リンが息を吸い込んだ。

「……充分です」

 うれしそうな安心したような笑顔を浮かべて「ありがとうございます」と呟いたリンを見て、スイが勢いよく顔を手で覆った。パチーンと小気味いい音が鳴った。ふるふると身体が震える。

 リンがふと視線を下げた。ゆっくり顔の下半分を両手で覆い、そのままゆっくり床へとへたり込む。ビルが慌てて腰を抱え込む形で支えた。

「大丈夫かい」

「すみません……その、安堵したら力が抜けてしまって……」

「……そっか」

 苦笑するビルに礼を述べたあと、リンは顔をうつむかせて目元をぬぐった。瞬きをしたビルが目を細めて、空いている手でリンの頭を撫でる。そんな光景を全体的に眺めて、ハリーが困惑した声を発した。

「……えっと……これって、何か解決した感じ?」

「いいや。何も解決してない」

 ジンが間髪入れずに返した。きつく歯を食いしばり、苛烈な緋色の目でナツメを睨みつけている。そっと伸びてきた手が、ジンの肩の上にポンと乗る。振り返ったジンとアキヒトの視線がぶつかった。切なげに目を細めて、アキヒトが静かに首を横に振る。

「リンが満足してるなら、俺たちが口をはさむ理由はない。おまえは納得できないかもしれないが、たった一言だけで相手を赦す人間もいるのさ」

「っ、だからって……!」

「おまえも似たような形で赦された身だろ」

「……っ!」

 アキヒトの困ったような調子の一言で、緋色が凍りつく。それでもジンの口はかすかに動いたが、音は出なかった。ゆっくりとジンが脱力して、うつむく。アキヒトが甥の背中をポンと叩いた。

「おいナツメ、どこ行く」

 シリウスが不機嫌そうな声を上げた。みんなの視線が階上に集まる。立ち上がったナツメが、同じく不機嫌そうな顔でシリウスを見下ろす。

「……この流れからして、どうせまた何かしら干渉してくるんだろう。干渉されるのはキライだ」

 シリウスが吠え声を上げるまえに、ナツメは姿をくらました。

「………」

 怒りをぶつける相手がいなくなって、シリウスの身体から殺気が立ち昇った。

「……仕方ないよ、シリウス。母さんだもの」

 不意にリンが言った。振り返ったシリウスが目を丸くする。リンは困ったように、でも妙にスッキリしたように笑っていた。

「………まぁ、リンがそれでいいならいいけどな」

 そう呟いたシリウスの顔は、明らかに「いい」とは思っていなかった。スイも、なんでリンはあんな一言だけで満足できるんだろうと、心底疑問に思っていた。


5-30. 向き合う

***
 すっごい難産だった。どうまとめたらいいのか最後まで悩んだけど、たぶんあの母娘なら一言で終わるんだろうなって。リンはあっさり満足するけど、周りはついていけない。そんな感じのイメージでした。モヤモヤな厨二話でごめんなさい。
 あとレギュラスの性格とか何やらは完全想像です。

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