クィディッチの対スリザリン戦が、とうとう明日に迫った。

 最後の練習を終えて大広間で夕食を取りながら、セドリック・ディゴリーは溜め息をついた。選手ともほかのハッフルパフ生とも少し離れたところに座って、一人で黙々と食べているのだが、どうも視線を感じる。

 応援してくれるのはありがたいし、それに応えたいとも思う。だが、それがずっと続くと少々……いや、かなり気が滅入ってしまうのだ。緊張するし、なにより期待に応えられなかったらどうしようと不安が募る。

「……だめだ」

 食事が喉を通らない。もう寮に帰って寝てしまおう。

 セドリックが早々に席を立つと、周りの生徒たちから声援が飛んできた。それに手を上げて応えて早足で扉へ向かう。途中スリザリンのテーブルから嫌味な野次が飛んできたが、セドリックは無視を決め込んだ。

 しかし、いざ寮へ帰ろうとすると、帰りたくないという気持ちが湧き出てくる。帰ったら帰ったで、また視線が纏わりついてくるに違いなかった。

 セドリックは方向を変えて、静かな場所を求めて歩き出した。



 結局、ほかにいい場所が思いつかず、セドリックは図書館に入り込み、視線から逃れるように奥へと進んだ。

 歴史に関連する本がたくさんある一角にきて、ほうと息を吐き出す。ここは滅多に人が寄りつかない。適当な本を読んでいるふりをして、セドリックは時間が経つのを待った。



 しばらくして、セドリックはふと目を開けた。いつの間にか床に座り込んで寝ていたらしかった。辺りでは物音一つしない。時計を見ると、もう十時近かった。

 セドリックは立ち上がって本を棚に戻し、司書のマダム・ピンス以外は誰もいなくなった図書館を出て、寮へ帰った。



 談話室には誰もいなかった……いや、一匹だけいた。部屋の中央の椅子の上に小さな猿がいる。セドリックはこの猿に見覚えがあった。今年入学してきた日本人 ――― リン・ヨシノが飼っている猿だ。

「やあ」

 軽く挨拶をすると、小猿はセドリックを見上げて、細く長い尻尾を静かに揺らした。これが犬だったら喜んでいるのかなと思うところだが、猿の場合はどういった感情を表しているのか、セドリックには分からなかった。

 だが、とりあえず威嚇されているわけではないと判断して、もう少し話しかけることにした。傍〔はた〕から見たらイタい人だろうが、気にしなかった。何かしていないと落ち着かなかった。

「君はリン・ヨシノの……友達、だよね?」

 ペットと言ってしまっていいのか分からなくて、セドリックはそう言った。小猿はセドリックをじっと見つめたまま ――― なんと、頷いた。

 目を見開き、セドリックは相手を見つめ返す。視線を受けて猿は小さく首を傾げた。人間みたいだ……ぼんやりと思いながら、セドリックは口を開いた。

「君は……なんて名前なんだい?」

 小猿はただセドリックを見つめている。さすがに言葉は話さないかとセドリックが笑ったときだった。

「……スイ」

 離れたところから声が返ってきた。驚いて勢いよく顔を向けると、女子寮への入口のところに女の子が立っていて、こっちを見ている。

 さっきまでセドリックと話していた小猿が、椅子から飛び降りて彼女に駆け寄り、スルスルとローブを伝って、あっという間に彼女の肩に乗った。

「……話してたの?」

 小猿を撫でながら、リン・ヨシノが質問した。それが自分に向けられたものだと一瞬遅れて気づき、セドリックは慌てて頷いた。ふぅん、とリンが相槌を打つ。

 しばらく無言が続いた。リンは何も言わず、静かにスイを撫でている。セドリックは少しいたたまれなく感じたが、どうしてか自分から彼女のそばを離れたくはなくて、ただリンを見つめた。こんなに近くで彼女を見るのは初めてだった。

 見れば見るほど綺麗な子だ。艶のある漆黒の髪は真っ直ぐ綺麗に切り揃えられていて、髪と同じく黒い睫毛は長く、女の子だと実感する。それらの黒に対比して、肌は雪のように白い。西洋人とは違って顔立ちに凹凸はあまりないが、顔のパーツがコンパクトにまとまっていて、かつ、とても均整がとれている。文句なしの美少女だ。

 首や手首も白く細い。きっとローブの下の肢体〔したい〕も細くしなやかなんだろうな、と思ったところで、セドリックはハッと意識を現実に戻した。何を考えているんだと自分を叱責し、急いで思考を中断して、改めてリンへ視線を戻す。

 ようやくリンが、かなり名残惜しそうにスイを撫でていた手を止めた。

 待っていたとばかりにスイが彼女の肩から飛び降りる。セドリックのほうを一瞬だけ振り向いたあと、スイは女子寮へと入っていった。

 二人だけとなった談話室に、静かな空気が流れた。二人とも何も話さない。しばらくして、リンがやっとセドリックを見た。

「……明日」

 小さな呟きで、内容もたった一つの単語だけだったが、周りで一切音がしないので難なく聞き取れたし、込められた意味も充分汲み取ることができた。

「……うん、明日、試合なんだ」

 いつものように笑ったセドリックに、リンは少し眉をひそめた。

「……疲れたときは」

「え?」

「緊張とか、プレッシャーとか、不安とか……いろいろごちゃまぜになって疲れちゃったときは、何か考えるのをやめて、寝ちゃうといいよ。それで、朝一番に ――― みんなより早く起きて、ご飯を食べる前に、箒に乗って飛んでみたらいいと思う。何も考えないで、ただ、空に近づいてみて。そうしたら、きっと空を思い出せるから」

 セドリックが呆然と聞いていると、リンは「それだけ」と言って踵を返し、女子寮へと消えていったが、思い出したように入口から顔だけ出す。

「おやすみなさい、ディゴリー」

「え……ああ……おやすみ」

 何も考えちゃだめだよ。最後に念を押して、今度こそリンは引っ込んだ。残されたセドリックは、しばらく呆然と突っ立っていたが、ふと我に返ってベッドへと向かった。

 ルームメイトたちは、とっくに寝ていた。ベッドの中で、セドリックはぼんやりと天井を見上げた。リンは僕を心配して言ってくれたんだろうか?

 いろいろ思うことはあったけれど、リンが最後に残した言葉を思い出すや否や、セドリックは、不思議とすぐに眠りに落ちた……。



 翌朝、セドリックはいつもより早く目を覚ました。時計を見ると、朝食までたっぷり時間がある。セドリックはベッドから起き上がって、クィディッチ用のローブに着替えた。昨日リンが言ったことをやるのだ。

 昨日初めて話したような子に言われたことをわざわざやるなんて、馬鹿正直にも程があるかもしれない。だけど、やった方がいいような ――― いや、やらないと後悔してしまうような、そんな気がしたのだ。

 占い師に言われたことを、半信半疑にやってみる ――― そんな感じだ。半信半疑というより、今の自分は、彼女を八割くらい信じて、二割くらい疑っている心境だが。

 朝からこんなことを考えるなんて。小さく笑って、セドリックは着替えを終えた。まだ寒いかと思い、ユニフォームの上にマントを羽織って、セドリックは箒を肩に部屋を出た。

 まだ誰も起きてきていないようで、談話室はひっそりと静まり返っていた。

 いい気分だった。誰の視線も感じない。自然と足取りが軽くなるのを自覚しながら、セドリックは、何かに突き動かされるように歩を進めた。

 外に出ると、冷たい朝の空気が肺のなかに入ってきた。からりとした良い天気だ。ますます気分が高揚して、セドリックは競技場へ早足で向かった。

 誰もいない競技場の中央で箒に跨り、強く芝生を蹴る。

 とてもいい気持ちだった。

 練習用のボールもない。誰も見ていない。おかげで本当に何も考えず、のびのびと快く飛ぶことができた。こんなに穏やかな気持ちで空を飛ぶのは久しぶりだ。

 セドリックはどんどん高度を上げた。もっと空に近づきたかった。地面よりずっとずっと高く。競技場がとても小さく見えた。

 ゆっくりと辺りを見渡して、セドリックは、自然と微笑んでいるのが分かった。

 ――― 僕はいま、やっと空を思い出したのだ。



 その日、見事ハッフルパフが勝利を収めたのを見て、スイは感極まってリンの首に抱きついて泣いた。

 スイの頭を撫でながら、リンは微笑んだ。

「……おめでとう」

 視線の先で、セドリック・ディゴリーが仲間に囲まれ、晴れやかに笑っていた。

1-11. 空を思い出す
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